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2012/12/23

義挙310周年・赤穂義士凱旋行

義挙310周年記念
 「赤穂義士凱旋行」

H25/12/15(日)

朝・襲撃篇

11:00開始

堀部安兵衛宅跡(安兵衛公園、墨田区立川3-15。数年前まで放置・無表示だったが今は公園に名前がついて旗が立ってる。菊川駅歩10分/錦糸町駅歩15分)スタート
→吉良邸跡(本所松坂町公園。両国小の隣。吉良邸の北側の敷地にあたる)公園というほど広くないが「首洗い井戸」や兼春稲荷と上野稲荷を合祀した「松坂稲荷」あり。この周辺の道路では14日・15日と義士祭・吉良祭「恒例元禄市」が開催。食べ物以外の商品も豊富だが食べ物がいろいろ美味そう、ただ狭いので混雑。ここだけでもその気になれば数時間つぶせそうなぐらい。両国小に接して芥川竜之介の碑。公園の西南のほうへいくと吉良邸裏門の表示板。公園の南側にずれると夏目漱石の塾、前原伊助宅跡の表示板あり。

昼・前篇(吉良邸〜新橋)

13:00開始
吉良邸跡
→回向院(明暦の大火や関東大震災などの数十万人の無縁仏を弔う。諸宗山無縁寺と称し開かれた寺と思われた)赤穂浪士がここで休息をとろうとしたが門を閉ざされた。ここは北側に回らないと入れないので注意
→両国橋(ここで隅田川を渡る予定だった)15日が大名旗本の登城日であることを理由に橋を渡ることを拒否される。赤穂浪士が休憩した両国橋の東詰には四十七士の一人大高源五の句碑あり「日の恩や忽ちくたく厚氷」(太陽のおかげで厚い氷もすぐ砕けて溶ける)向かいに「ももんじ屋」定食が千数百円。南下すると「旧両国橋跡」の表示板あり、当時の両国橋は現在の橋よりもうちょっと南にあった
→御船蔵
→一之橋で竪川を渡り、左手に江島杉山神社をみつつ萬年橋通りを南へ
→芭蕉記念館(松尾芭蕉の活動拠点の跡)
→萬年橋(小名木川が隅田川に流れ込む合流点の橋)橋わたる直前に芭蕉庵史跡展望庭園、松尾芭蕉の銅像。万年橋わたったら隅田川沿いの裏道に入る
→上之橋(かみのはし)・中之橋・下之橋(水路は埋め立てられ上之橋の欄干が残っているだけ)上の橋をすぎると平賀源内電気実験の地の碑、ついで佐賀稲荷。隅田川大橋と永代橋の中間ぐらいで左手に折れると紀文稲荷神社、そのへんに四十七士の一人奥田貞右衛門行高宅
→永代橋、赤穂義士休息の地の碑(橋の東側、わたる前)大高源五と俳句仲間であった「ちくま味噌(乳熊味噌)」初代竹口作兵衛木浄が浪士等に甘酒を振る舞い労をねぎらった。乳熊味噌は赤穂浪士ゆかりの地として江戸の一大観光地となった。ちくま味噌では最近まで討ち入りの日に合わせてさっぱりとした美味な甘酒をサービスしていたが最近つぶれたらしく「ウチダESCO」という会社になってる。この橋で墨田川を越えて霊岸島へ
→豊海橋(かつての永代橋は今より北側、豊海橋の北側につながっていたため、当時は永代橋に続いて豊海橋を渡り日本橋川を越さなければ霊岸島へ行けなかった。そのよし碑あり)
→霊岸島(現在の新川1・2丁目)、新川大神宮
→亀島橋、堀部弥兵衛武庸碑(橋わたった右手。堀部弥兵衛が住んでいた)。その向かい(渡った左手)には伊能忠敬と写楽の説明板と「銀座の柳四世」あり。みるものみたら亀島橋は引き返して亀島川沿いに東南方向へ
→高橋を右折、亀島川を越えて霊岸島を出る
→稲荷橋跡(水路はすでに埋め立てられ欄干だけ)
→築地鉄砲洲通りを南下、鉄砲洲稲荷神社の前まで来たら左に折れ隅田川沿いを南に。現在の佃大橋の袂まできて西へ折れる
→築地川公園(かつての築地川)を右手に、聖路加看護大学を左手に見ながら南下
→浅野内匠頭邸跡=赤穂浅野家江戸上屋敷跡(聖路加看護大学)芥川龍之介の生誕の地の案内板
→築地本願寺の北東側の壁に沿って北西へ、次いで北西側の壁に沿って西南へ。築地場外市場前を右折、晴海通りに入りまた万年橋を渡る
→歌舞伎座を右手に見ながら進み、昭和通り(東銀座駅)をちょいすぎたところで左折。昭和通りの一本西側の裏道を南下
→汐留橋(昭和通りが高速の下を通るあたり)から汐留通りに入る(シオサイトを左に)。討ち入り後ということで人目をはばかり東海道(国道15号)の一本東側の裏道を南下。この道は今の汐留通りに相当。ただしゆりかもめの駅で遮断されてるので途中ちょいと迂回
→伊達家屋敷跡(日テレ本社ビル)仙台侯が当時仙台名物だった仙台粥を振る舞い義士が休息したという表示板。
→この後、汐留通りが寸断されてるのでちょいと東海道(国道15号)に出てる。山手線を越えたあたりの右手に磯貝十郎左衛門正久の家があったため、立ち寄って病床の母貞柳尼を見舞うよう内蔵助に勧められたが固持
→日比谷神社の裏から改めて汐留通りに戻る
おまけオプション1「内匠頭終焉之地」新橋四丁目交差点。談之助がよく落語やってるライブバーZZの目の前
16:30終了

H25/12/16(月)

昼・
後篇(新橋〜泉岳寺)

11:00開始
おまけオプション2和菓子「新正堂」(切腹最中とか義士羊羹とか。新橋駅歩10分)
まず汐留通りを南下
→芝大神宮
→金杉橋で汐留通りが終わり、この橋で古川を越したらまたすぐ一本東側の裏道に戻る
→芝4丁目交差点(山手線にぶつかるあたり)渡るところで道がなくなるので一旦第一京浜に移り交差点渡ったらまたすぐ裏道に入る
→本芝公園・御穂鹿島神社、この先三菱自動車ビルにぶつかって道がなくなるので表通りにうつる
→西郷南州・勝海舟会見の地(田町駅近く、三菱自動車ビル)ここの北方、三田駅の方角に三河岡崎藩主水野監物の屋敷(義士を9人預かった)
→札の辻→元和キリシタン遺跡→御田八幡神社(延喜式内稗田神社)
→高輪大木戸跡(江戸時代は夜になると閉門)映画「メッセンジャー」のロケに使われた地下道あり
→泉岳寺(ここで幕府の指示を待った)

夕・追憶篇

(泉岳寺と関係史跡の散策)
泉岳寺。まぁ何度かいってるとこなので簡単に
「大石内蔵助の立像」山門前
「主税の梅」松平邸で大石主税他9人が切腹した場所の梅
「血染めの石・梅」田村邸の浅野長矩が切腹した場所の石と梅
「首洗い井戸」
→大石良雄他十六人忠烈之跡(泉岳寺の裏手に回る細道から行く、だが結構離れてる。高松宮邸の西)肥後熊本藩下屋敷(細川越中守邸)跡。義士17人預けらる
→そこから適当に桜田通りにぬけて北上、六本木通りと合流するあたりの左手に久国神社(港七福神の布袋)あり、その近くに南部坂
→南部坂。内藏助が瑶泉院に暇乞いに訪れた「南部坂雪の別れ」で有名。南部坂を登り終えたら左折
→氷川神社(遙泉院住居跡)瑶泉院(あぐり)は長矩切腹後実家の備後三次藩中屋敷(浅野土佐守邸)へ移っていたが、享保三年1718三次藩断絶。享保五年1730、今の赤坂4丁目から氷川神社が移転してきた。表示板あり。
15:45終了

※告知はこちら・赤穂義士凱旋行(告知)

2012/10/07

「何がフランス革命をもたらしたのか」(しか)

「何がフランス革命をもたらしたのか」

 「フランス革命」というと、どうしてもその華々しい歴史物語に目がいってしまいがちである。勿論そうした物語は、それはそれで大いに結構。ベルばら万歳!ああオスカルよ~ しかし今回は「何がフランス革命をもたらしたのか?」という視点から、この大革命に至る歴史を振り返るとともに、そこから我々にとって有益な何らかの教訓を引き出したいと思う。

 そもそも大革命以前のフランスの国体であった絶対王政は、ルイ14世「朕は国家なり」ルイ15世「至上権が存するのは、朕一個人のなかだけである」ルイ16世「私がそれを欲するから、それは合法だ」という言葉に表わされているように、ある意味では「王がすべて」という体制であった。しかし国王は、ランス大聖堂での聖別式で王国基本法(歴史的に形成された慣習的原則)の尊重を誓約することに表れているように、「絶対」ではあるが「専制君主」ではない。また当時の(それぞれの管轄区の)最高法廷である高等法院は、王令の登録権(=登録拒否権)と王への建白権を保持しており(王令は高等法院に登録されることで初めて効力を有する)、政治システム上も王権は一定の制約下にあった(ただし王が高等法院に臨席し、「親臨法廷」を開催することで強制登録が可能だった)。
 では、この絶対王政がどのようにして倒壊に追い込まれたのかを見てゆこう。18世紀後半には、オーストリア継承戦争・七年戦争・アメリカ独立戦争といった度重なる戦争により、財政は慢性的な危機状態にあった。これを打開するため、王政は繰り返し改革を試みることになる。ルイ15世の最末期に、高等法院の権限を大幅に制限しようとしたモプー。ルイ16世の治世の初めに経済自由化政策を推し進めたテュルゴ。アメリカ独立戦争の戦費を借金で賄いながら、地方政治改革を試み、また財政報告書の公開に踏み切ったネッケル。それまでの諸改革をふまえ、身分の区別なく負担する土地税の導入・穀物取引の自由化・国内関税の撤廃・州議会の設置など包括的な改革案を提案したカロンヌ。新税の導入を実現しようと高等法院と対決したブリエンヌ。総じて言えば、王権側は、司法改革により自らに権力を集中させ、特権身分への課税(平等な税負担)と経済自由化を実現することで財政危機を打開し、また地方議会を設置することで国民合意の政治を形成することを意図していたと言える。しかしこれらの諸改革は、特権身分の強硬な反対ばかりでなく、「モラルエコノミー」を求める民衆の経済自由化政策への反対や、王権内部での派閥争いもあり、ことごとく失敗に終わった。
 このように「決められない政治」または「決めたことをやり通せない政治」が続く中で、事実上の財政破綻に直面したことから、1788年に翌年の全国三部会開催が決定された。王権側としては、あえて全国三部会の開催に打って出てることで、懸案の諸改革を一気に成立させたいと考えたのであろう。しかし全国三部会の代議士の人数や選出方式や、議事・採決などの運営方式をめぐって、特権貴族 VS ブルジョワ層(+少数の自由主義貴族)の対立が急激に高まり、88年の秋には、王権の思惑を超えた「政治の季節」へと突入することになる。このことは後にジロンド派の領袖として活躍するブリソの、88年末における次のような言葉に表れている。「私がフランスを発ったときからまだ六ヶ月しか経っていないのに、帰国してみると、もはや私の同胞たちは見分けがつかないほどに変わっていた。彼らは大きな溝の向こう側に行ってしまったのだ」。こうしてパトリオット(愛国派)と名乗るフランス革命の変革主体(その第一世代)が形成され、彼らが全国三部会の第三身分代表として89年6月にフランス革命の狼煙をあげることになった。

 ここで「何がフランス革命をもたらしたのか?」という問いに立ち返ると、決定的な第一要因としては、体制の統合力(ヘゲモニー)の崩壊にあったと言わねばならない。勿論これ以外にも、サロン・アカデミー・フリーメーソン・文芸サークルなどを母体とする新しい社会関係の発展や、ルソー・ヴォルテール・モンテスキューに代表される啓蒙思想の隆盛、公共意見(opinion publique=世論/公論)の誕生なども、大革命のための必要な要件であったろう。しかし決定的な第一要因とは言い得ない。もしルイ16世が偉大な国王であったなら、王権主導の諸改革が断行され、革命には至らなかったかもしれないのである。
 このフランス革命に至る歴史から何らかの一般的教訓を引き出すとすると、革命家が革命を作り出すのではなく、革命的状況(革命を必要とする状況)が革命と革命家を作り出すと言うことができる。私個人は、戦後レジームからの決定的転換という意味での「日本革命」を待望する者であるが、革命を待望する諸個人にできることは、革命への運動ではなく、まずはその思想的基盤を形成すること、親しい人間関係を大切にすること、既成秩序の混乱を支持すること、または革命を信仰することのみであろう。
(文責:しか)

主な参考文献
◎柴田三千雄『フランス革命はなぜおこったか』(山川出版社、2012刊)
○柴田三千雄『フランス革命』(岩波セミナーブックス、1989刊)
○柴田三千雄ほか『世界歴史大系・フランス史2』(山川出版社、1996刊)

※上記の内容は、H24年10月7日に開催された月例会における発表「フランス革命前史についての検討」の一部分を加筆修正したもあのである。

2012/08/26

「一揆」という語意の変遷について(しか)

「一揆」という語意の変遷について

 現在「一揆」という言葉は、江戸時代の百姓一揆のイメージで使われがちである。しかし、歴史的にはもっと多様な意味を持っている。しばしその意味の変遷を追いかけると共に、死語ではなく、現代に生きた言葉としての「一揆」の可能性を考えたい。
 そもそも漢字の生まれ故郷である支那の地では、「揆」とは「①図る、②道、③全体の過程、やり方」といった意味で使われてきた。例えば『孟子・離婁章句下』には次のような用例がある。「(舜と文王は)地の相去るや、千有余里、世の相後るるや、千有余歳、志を得て中国に行えるは、符節を合するが若く、先聖後聖其の揆一なり」と。文意はおおざっぱに言うと、「舜と(周王朝の祖である)文王は、生まれた場所も時代も、遠く隔たっているが、志を持って立派な政治を行ったことでは、その道(やり方)はまったく同じである」といった感じであろうか。
 一方で我が国では、平安時代の太政官符(承和11年4月10日)に「国を建て職に任ずるは大小これ同、禍を除き福を祈るは彼此一揆なり」という用例が見える。文意はだいたい、「武蔵国や相模国、あるいは伊豆国だとか、それぞれ国の大小は異なっても、災いを除いて民の幸福を祈ることでは、国司の務めは同じである」といったところであろうか。このように古くは「程度や種類・方法などが同じであること、一致すること」といった意味で、「一揆」という言葉は使われていた。
 しかし、そうした古典的用法は、鎌倉末期から南北朝時代にかけて大きく変化することになる。それは、(大名クラスではない)中小武士が一味同心して戦うことを「一揆」と称するようになったことである。そうした「軍陣一揆」は、太平記の世界で大活躍している。例えば、『太平記巻二五・住吉合戦事(国民文庫本)』には「(細川顕氏は)四国の兵共を召集て、今度の合戦又先の如くして帰りなば、万人の嘲弄たるべし。相構て面々身命を軽じて、以前の恥を洗がるべしと、衆を勇め気を励されければ、坂東、坂西、藤、橘、伴の者共、五百騎づつ、一揆を結んで、大旗小旗下濃(すそご)の旗三流立て三手に分け、一足も引ず討死すべしと、神水を飲てぞ打立ける」とある。ここでは、楠木正行との決戦を前にして、細川顕氏が、守護であった讃岐国の中小武士たちに、坂東郡・坂西郡という地域ごと、あるいは藤原・橘・伴といった氏姓ごとに一揆を結ばせている場面を描いている。太平記には、この他、平一揆・白旗一揆・桔梗一揆などなど、さまざまな一揆が登場する。こうした軍陣一揆が、一つの戦いで解散せずに恒常化してゆくと、一族一揆や国人一揆と呼ばれるものになってゆく。一族一揆とは、惣領に率いられて一族・郎党が結束していた武士団が解体してゆくなかで、同じ姓をもつ一族としての団結を維持するための一揆であり、国人一揆とは、地縁的なつながりで結ばれた一揆である。
 この武士たちの一揆に対して、土民を主体とする一揆のことを「土一揆」といった。ここで注意しておきたいのは、もともと「一揆」と言えば、あくまで武士による一揆のことであり、それとは区別して「土一揆」と呼んだということである。しかし、応仁の乱の前後から土一揆が頻発するようになると、「土一揆」のことを単に「一揆」と称するようになった。その経緯は、江戸期になって書かれた『続応仁後記二・畠山上総介義英自害事』に分かりやすくまとめられている。「土民の徒党して軍を起こす者を名付けて土一揆と云ひならはす。民の字を略せる者ならし。然るに近年は土民の徒党毎度蜂起し、皆人、土の字を略せしめて、其れを只一揆とのみ云ならはす」と。こうして次第に、「一揆」とは「百姓(=農民)一揆」を指すようになっていった。
 以上が、歴史的な「一揆」という語意の変遷であるが、現代の日本中世史の学術用語としては、その当時「一揆」と名乗ったり呼ばれたりしていたか否かにかかわらず、「一味同心した集団」のことを指す言葉として「一揆」が用いられている。そうした場合、惣村はもちろんのこと、戦国大名などもある種の一揆として考察されることがある。
 思うに学術用語としての「一揆」は、中世に実際に使われていた「軍陣一揆」と「土一揆」の両方の共通点をとり一般化したものであろうが、堅苦しい言葉が多い学術用語としては、まれに見る(おそらく偶然の産物とはいえ)大傑作ではなかろうか。これは青木文鷹氏の言葉で言えば「クラスタ」ということになるのであろうが、僕としてはやはり伝統ある「一揆」という言葉を推奨したい。
 近代国家の崩壊局面にある現代日本は、個人が往々にして個人としてバラバラにされてしまいがちな社会である。しかし人間は、社会的にも精神的にも、他者との関係性(つながり)なしには人間としては生きてゆくことができない。国家が砂のように溶けてしまいそうな現代にあって、各個人が、それぞれの周囲の人間と、何らかの形で「一揆」的なるものを形成し、それを維持してゆくことは、個人が人間として生きるという意味でも、国家を下支えするという意味においても、ますますその重要性を高めている。
(文責:しか)

主な参考文献

勝俣鎮夫『一揆』(岩波新書)
神田千里『土一揆の時代』(吉川弘文館)

※上記の内容は、H24年8月26日に開催された定例会における発表「中世日本における一揆とは何か」の一部を加筆修正したもあのである。

2010/12/20

12/11(土)丸嶋輝特別講義「幕末外交ともう一つの可能性」

【レポ】
丸嶋先生の講義ではまず幕末外交を、嘉永6年からの阿部・堀田主導の開国期と、安政5年からの井伊主導の変転期、万延元年からのねじれ外交期に分けて、それぞれご解説いただきました。岩瀬忠震の「忠孝信義の風をもって貪婪虎狼の俗を化し、五世界中一帝となす」という志の高さには一同感服いたしました。つづいて、これは僕からの要望に応えてもらったのですが、文久元年の対馬事件(ロシア船が対馬に無断上陸・居座った事件)での幕府外交の概略についてのお話がありました。必ずしもイギリス船が対馬に来たから退去したという話ではなく、幕府外交の努力があったからこそ退去が実現したということでした。最後に、果たして現在の日本は世界有数の経済大国になったけれども、こと外交に関して、徳川幕府から進歩したのであろうか、むしろ当時よりも遥かに劣っているのではないかという深刻な問題提起をいただきました。

その後、丸嶋さんの講義を踏まえて、参加者で様々な観点から議論を行いました。以上、簡単ですがご報告まで。(文責:しか)

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【告知】
徳川幕府は外交的に無能力だったから不平等条約が結ばれ維新の志士たちが奮起した…という現在我々が信じている物語は、はたして本当なのか? 徹底的に検証!

■かたりて:
在野歴史研究家。関八州は下野の出身。小栗上野介と田中正造と故郷を激烈に愛し、メキシコを主とした中米文化にも造詣が深い。いろいろ何でも詳しいが専門は幕末・戊辰戦争史。

■とき:
嘉永163年12月11日(土)18:00から

■ところ:
品川第一区民集会所(北品川3-11-16)第三集会室(和室)
(※JR大崎駅歩20分、京急本線新馬場駅歩3分)

■ついえ:
資料代として参加者各位の身分に応じたカンパをお願いします(百円程度から)。

「皇室と日本を考える」
http://kokutai.blogspot.com/

2010/11/10

11/03(祝)大場一央先生特別講義「國史における『明治』の位置」

【レポ】
司会:本年の明治節に際して「皇室と日本を考える」では、早稲田大学の大場一央先生をお招きし、「國史における『明治』の位置」と題したご講義をいただきました。おかげさまで本編参加者は総勢二十六名という近年なかった大盛会となりました。しかさんが代表になって初めての大きなイベントでしたが、大成功でしたね!

しか:えっへん。もっとも参加者の半分以上は、早稲田大学国策研究会をはじめとした大場先生の関係者でした。講義の素晴らしさもさることながら、その点でも大場先生のお力に驚き入った次第です。何はともあれお忙しい中、お越しいただいた皆様、ありがとうございました。おかげさまで充実した催しとなったのかなあと思います。

司会:さて代表、今回どういった意図で、大場先生特別講義を企画したのでしょうか。

しか:それはですね。まず一つには、未だに保守・右派界隈は勿論のこと世間一般でも肯定的にとらえられている「明治」という時代を一度根本から問い直し、「明治」にはじまる問題が現在まで続いているんだということを世に訴えたかったこと。そしてもう一つには、大場先生というそうした趣旨のお話しをしていただくのに相応しい格好の人物がいらっしゃったことですね。

司会:なるほど、ありがとうございます。では早速講義の中身を振り返ってゆきたいと思います。講義は「江戸の部」と「明治の部」の二部がありましたが、まずは第一部の「江戸の部」から内容を紹介してもらえますでしょうか?

しか:冒頭まず我々が自由にものを見、自分の頭で自由に考えているというふうに思っているのは果たして本当かという問題提起があった後、「大日本史」の編纂事業に取り組んだ水戸学をあげ、「国史」とは単なる事実の羅列ではなく、ある一つの立場から歴史を価値づけて、その是非を明確したものであるというお話がありました。

司会:有名な助さん格さんの間にも論争があったそうですね。京都学派の助さんは事実の羅列派だったとか。

しか:そうですそうです。そしてよく知られている通り、江戸時代は学問の大発展期だったわけですが、その本には東照神君家康公の事績があったというお話がありました。何でも家康公は、ただ単に天下人というだけではなく、書物の改板などを通じて儒教が重んじられる風潮を意識的につくり、ありとあらゆるものを一つの意味の元で説明することができる道義国家を建設した、つまり我が国を徳義で覆った人という意味で「東照神君」と追号されたのだということでした。

司会:今まで狸親父と馬鹿にしてました。家康さんごめんなさい。

しか:分かればよろしい。それから松平定信公の話、水戸学者・立原翠軒と国学者・本居宣長の対立の話、藤田幽谷「正名論」の話がありまして、江戸期を通して成熟してきた「我が国は何なのか」という議論を集大成し「国体論」にまとめたという会沢正志斎の話に至りました。

司会:えー、あまり長くならないようにお願いします。

しか:はい。国体論・祭祀論・大政委任論・攘夷論などを論じていただきましたが、簡潔に言ってしまうと、政治は祭りによって精神的一貫性、つまり大義を確認し、祭りは政治によって実現される。これが日本の国体であると、こういうことなんですねえ。

司会:レジュメに書いてあるままじゃないですか!

しか:ばれましたか?ごめんなさい。まあそういうことで。

司会:では、つづいて第二部の「明治の部」の方もお願いします。

しか:明治を代表する思想家ということで福沢諭吉について詳しくご紹介いただきました。まあ簡単に言ってしまうと福沢は、J.Sミルのようなイギリス功利主義の影響を強く受けておりまして、要は、人間が自我をむき出しにして自己主張すれば、家族やら何やらといった共同体がばらばらになって個人が生まれ、功利が生まれると。これが文明の発達なんだと、こういうことを言ってたんですねえ。

司会:と、とんでもない奴ですね!福沢の議論を推し進めれば、夫婦別姓でも何でもありじゃないですか。。。

しか:そんな人が明治時代を代表する一大思想家とされてしまった事実にも驚きますが、福沢的傾向は福沢ほどでないにせよ明治の言論人全般に通底していたみたいですね。明治時代に教育勅語という素晴らしい勅語が渙発されましたが、あれも明治が素晴らしい時代だったからできたのではなくて、全く逆。明治が道徳的に乱れた時代であったればこそ、ああいう勅語が求められたんです。

司会:今まで漠然と持っていた明治のイメージががらがらと崩れ去ってしまいました。目を開かされた思いです。

しか:そう言ってもらえると企画者としても嬉しいです。

司会:さて、大場先生特別講義につづいて「皇室と日本を考える」自主研究発表ということで、Frida氏より、随分長いタイトルですが・・・「日本総呆化徴候編集部不祥事件禍因根絶の逆縁教養維新の正機序説雑論―明治期圏点乱用の軌跡を辿って蓑田胸喜の用点用語の背景奥史を探検し立花隆氏の悖逆妄評を糺明弾劾す」と題する発表がありました。Fridaさんよろしければ、簡単に内容をまとめてもらえませんか?

Frida:はい。タイトルは、蓑田胸喜の関連冊子のタイトルをもじりました。漢文気分で見たらいいかも知れません。事の発端は、立花隆氏が、文藝春秋で連載してた『私の東大論』で、蓑田胸喜を誹謗中傷した事です。

司会:ふむ。

Frida:蓑田の批判は片言歪曲だ、とたびたび非難されますが、立花隆氏の分析こそ、片言歪曲に満ちていました。が、それ以前に、立花隆氏は、蓑田の文体を安易に理解不能と述べ、圏点の多用乱用を異様だと漏らしました。蓑田が用いた文体は、或る特有性があると思いますが、理解不能と安易に断じるものでなく、それなりに奥行きのある文体史的な、思想史的な背景があります。それは現代に於いて、多くの人によって忘れ去られた時代や論争や苦悩を含んでもいます。そう言う、日本史のポカンと忘却された時代を象徴するかのような一つの現象が、彼の文体であり、圏点乱用だった、と言うのが今回の私の一つの仮提言です。

司会:なるほど。

Frida:文体分析の方は、それなりに難しい事柄ですが、圏点乱用が著者の異常を示唆する証拠として充分かと言えば、答えは当然ながら「否」です。蓑田特有の現象でもありません。明治期には、蓑田が展開するような、文明論的記事には、たびたび圏点が乱用されていました。それを見た事無い、殆ど目にしてない、と言う事は、要するに、その時代の或る重要な議論の諸形跡群を見逃してると言わねばなりません。 更に・・・

酔っ払い:皿に?

バカボンのパパ:皿に茶碗に、徳利なのだ。

地縛霊:さ、さむい…。

象:パオ~ン!

メフィスト:滑る。用は済んだ。

司会:ご静粛にお願いします。

Frida:現代日本の原点たる明治の、重要な議論を見過ごしてる、と言う事は、原点にある、もしくは、原点からある問題を見過ごしてる、そして、似た様な議論なり、場合によっては、過ち自体をまた繰り返す怖れがある、と言う事をも意味すると思います。それを是正するには、明治期や、その前後の文明論的な議論を再検討するのが得策ではないか。余りにも広い領域なので、明治や大正前期に育った蓑田青年を軸に、そして、圏点乱用や、蓑田の文体を一種のキッカケとして、過去の望見を進めて行こうと思い立ち、それ用のブログ《〜圏点☆乱舞〜》を開設しました。機会がありましたら、ご覧ください。

司会:大変分かりやすい要約をありがとうございました。それにしてもこのブログは圏点を乱用どころか使用することができないというのは、ちょっぴり残念ですね!読者の皆様で圏点を補いながら読んでいただければと思います。以上、「皇室と日本を考える」からのご報告とさせていただきます。

しか:お疲れ様です。ありがとうございました。(了)

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【告知】
「明治」という時代にあって、我が国が他のアジア諸国に大きく先駆けて近代化を実現し、国民国家を形成することに成功したことは誰もが認める歴史的事実です。しかしそれは、偏に「新政府」による欧化政策の功績なのでしょうか。またその過程で失われた伝統は、単なる「旧弊」に過ぎなかったのでしょうか。さらには、あったかもしれない「もう一つの近代化」の可能性とは。

今回「皇室と日本を考える」では、早稲田大学講師の大場先生をお招きして、一般に美化される傾向にある「明治」という時代を、リベラル派とはまったく別の視点から、今一度見直します。栄光ある「明治」の陰影が、今白日のもとに!

■催し
大場一央先生特別講義「國史における『明治』の位置」

※ご経歴:昭和五十四年、北海道札幌市生。早稲田大学教育学部卒業。同大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、早稲田大学講師。専門は儒教(陽明学)。

■とき
明治節十一月三日(祝・水)午後二時半開場、三時開会

■ところ
文京区勤労福祉会館(本駒込四丁目三十五番十五号)第二第三和室
※JR山手線駒込駅東口改札より徒歩十分程度。

■資料代として
参加者各位の身分に応じたカンパをお願いします(※一般の社会人の方は千円程度を目安に)。

「皇室と日本を考える」
http://kokutai.blogspot.com/

2009/08/18

09/06(日)秋の遠足1「稲荷山古墳見学会」〜左翼学説を斬り伏せた金文字の剣と"田中卓の闇"〜9/4更新

【序】悠仁親王誕生と皇位継承問題

30年前の9月、日本の古代史が(というより学界が)激震に見舞われた世紀の大発見がありました。それにより左翼学説の権威が地に墜ち、この時から日本の保守回帰が静かに、しかし力強く始まったのです。みんな忘れてるけど(生まれてなかった人ももう多いだろうし)。あれは天佑であり神風でした。日本の保守系世論の復興なくして、70年代さながらの左翼的空気が国民感情を覆っていたならば、こんにち皇位継承問題における男系保持の世論がここまで力を持つことはありえたでしょうか。
くしくも当日の9月6日は、悠仁親王満3歳の誕生日でもあります。皇位継承問題=いわゆる男系女系論争では、「女系」派の巨頭である田中卓は、かつては稲荷山鉄剣に刻まれた最古の「男系」系図の解釈から記紀の古伝承の事実性を論証した人物でありました。
記紀を歪曲しようとする左翼学説との激闘史を学び、皇国史観=万世一系の正しさを知っている現代のウヨならば、歴史が武器として顕現したかのような奇跡の剣に刻まれた輝く金文字に、深い感動を禁じ得ないことでしょう。

【1】その歴史的背景

70年代までの日本は左翼全盛期だったが、平成時代以降は右傾化(正常化?)して現在に至っているのは周知の通り。(この認識の段階で話が噛み合ない人とは致命的に会話が成り立たない)。この変化はいうまでもなく突然移行したわけではなく、その両時代の間に、80年代の「価値相対」時代があった。80年代といえば、いろいろ否定的な評価をいくらでもいいたい人もいるだろうが、とりあえず絢爛たるサブカル文化の黄金時代であり、その圧倒的な豪奢な光を背負った若者たちが、空疎な説教をふりまき鬱陶しい抑圧を繰り返してきたおっさんたちの貧乏くさい左翼気分を嘲笑し去ったことは事実である。これは全共闘への皮肉として70年安保ならぬ80年安保とも言われた通り、世代間抗争であり復讐であった。80年代の価値相対時代なくして、平成の保守回帰はありえたであろうか。80年代といえば、いろいろ批判・非難をしたい人もいるだろうが、平成の右傾化を用意したのもまた紛れもなく80年代だったのである。
さてその80年代という一つの時代は、実は昭和53(1978)年から始まったというのが、以前からの私の説である。その年には、年表でみると、その時期に十代を過ごした者にとっては、単に懐かしいだけではなくサブカル全盛期の開始にふさわしい彩り豊かで華やかな思い出がならんでいるからだ。

その年はまた、日本古代史にとっても、大きな区切りの年だった。いうまでもなく「稲荷山鉄剣」の金象眼(金象嵌)の115文字の発見である。
それ以前、70年代までの日本の古代史学界は世間の左翼風潮のまま、古事記や日本書紀の古伝承を天皇家が自分らの権力を正当化するため好き勝手に捏造したものであり史料的な価値はないとして、記紀の諸系図に現われる殆どの人間を「伝承上の存在」「実在しない架空の人物」とみなし、天皇架空説・王朝交代説・征服王朝説など、万世一系を否定する妄説を、アカデミズムの権威の下で堂々と唱えてきた。
この115文字が出現のニュースは、毎日新聞が9月19日の夕刊で他社をだしぬいて大スクープをものにしてから、大手新聞社や大マスコミのことごとくが、あるいは一面トップ、あるいは見開き左右両面ぶちぬき、あるいはタイトル三段ぬきで後追いながらも連日の報道。解説やコメントに古代史学者が総動員されたが、何も知らない一般人は、ただ諸説入り乱れてるんだなぁぐらいの認識がせいぜいだったかも知れない。しかし、この発見は、古代史業界にとっては、大東亜戦争の敗戦による断絶よりも大きな、喩えていえば明治維新に匹敵するような大事件だった。ある程度の研究史を知り、学界の空気を知っていれば、名だたる大御所たちの頓珍漢なコメントやあわてふためいて自説崩壊を糊塗する醜態に苦笑せざるを得ないものだったし、左傾学説にうんざりしていた者にしてみれば、今でいう「ワクテカ」、「飯ウマ」状態だったことが忘れられない。
またこの期間、毎日新聞は『雄略天皇の名解読』、『わしは雄略帝の片腕だった』、『オホビコは四道将軍の「大彦命」崇神天皇が派遣』と、当時すでに皇學館教授だった田中卓の説を好意的に紹介した。また翌年、田中卓は一般人向けに『古代天皇の秘密』(太陽企画出版)を著わし、それまで(今でも?)定説とされる左傾的、反天皇的な諸学説を、一つ一つ丁寧に解きほぐしてみせたが、鉄面皮な団塊世代に対しては、今ひとつ手応えがなかったように当時は感じられたかも知れない。
学者たちは、しばらくは何も変わってないような、とりすました顔をしていたが、しかし今思えば、あの時、アカデミズムの権威は完全に失墜したのだと確信をもって断言できる。それまでは、学者様はえらいという思い込みがなんだかんだ言っても支配的であった。だが明らかに学界の空気は一変した。学界では、王朝交代説や征服王朝説は、学界では腫れ物にさわるように否定も肯定もしないで棚上げされるようになり、学者ではないライターの手になるマニア向けの通俗古代史本の中で、煽り文体ばかりが仰々しい古代史の「謎」としてしか読まれなくなった。鉄剣によって、80年代はアカデミズムの権威すらも相対化された時代なのである。

あれから十年、平成になって右傾化の時代とインターネットの時代が同時にきた。電脳空間でも古代史趣味の庶民のヨタ話は相変わらず花盛りであった。今でも2chやmixiでは、昔ながらの左傾史観に毒された古代史謎解きごっこが跡を絶たないが、それは通俗古代史本のライターが団塊世代だったこと、それら駄本がしばらくは(いや、今も)流通していたことで、下の世代も影響を受けたせいである。しかし、かつてと異なるのは、記紀の古伝承に準拠した古代史像を信奉する正しい国民意識をもった若者が、昔では考えられないほど増殖したことである。2chの最盛期、歴史板には学界の通説を左翼的歪曲としてこきおろしつつ完膚無きまでに論破する痛快な「名無し」が続出していた。彼らは名もなき顔の見えない同志だった。妙に学界の内部に通じていた者もいたので、もしかしたら、中には老害教授に抑圧され世を儚む万年講師やペーパードクターもいたのだろう。その頃には少なくともネット上では単なる左翼的反天皇学説ではなく、朝鮮民族史学(俗にいうウリナラ史観)にとってかわられていた。これは反日的な古代史学説(?)の新たなネタ元になり、「非学問的な意味」で、いまだ重大かつ微妙な局面にあり、解決の見通しが立っていないが、事の顛末など詳細は別の機会に譲る。

それからまた十年。平成10年代、皇位継承問題が勃発し、男系護持派と女系容認派の論争が、少なくとも保守派の内部では前者の勝利に落ち着くかとみえた平成18(2006)年2月16日発売の『諸君!』三月号で、久々に一般人の前に現われた田中卓は、女系容認論を展開した。かつての俊英とは殆ど別人のように稚拙なその議論は、明らかに男系派から不満と反発で迎えられ、それに対する再反論は今でもネット上で多く読むことができる。とはいえ、左翼全盛期の嵐の下、伊勢の皇學館で、ひたすら地道に研究を重ね、アンチ左翼・保守系の古代史学者としては最大の大物であるのみならず戦前からの伝統を引く皇國史観の守護者のように思われてきた田中卓の態度表明はそれなりに大きな衝撃を与え、男系論優位の流れに大いに水をさした。鳴りを潜めかけた高森明勅を調子付かせ、いつまでも態度を明確にせずはぐらかし続けていた小林よしのりが後に『天皇論』で女系派宣言をすることになる導火線ともなった。しかし、田中卓の女系容認論は、独自の新しい論点で女系論を一新させたわけでも強化したわけでもない。なにひとつも目新しいことをいっていない。すでに議論し尽くされたことを蒸し返しただけだった。この戦術は女系派に一般的にありがちな傾向で、小林よしのりも(無知を装ってか本当に勉強不足でか)『天皇論』でやっている。もし、田中卓が、老人性痴呆症でないのならば、これは「時間かせぎ」であって、「何か」を待っているのである、と推測するほかない。

【2】金文字が証した記紀の系譜

(この章は当日に口頭で解説・議論)

【3】田中卓の限界と問題点

もっとも当時から私は田中卓を全面的に信奉していたわけではない。(以下かきかけ)
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※このイベントの告知はこちら↓
http://nhlar.blogspot.com/2009/08/80818-0819.html

2009/06/28

古事記を読む会

http://nhlar.blogspot.com/2008/12/121219.html

2009/06/04

07/18(土)「聖書考古学資料館」見学

このページは
http://nhlar.blogspot.com/2008/08/blog-post_3918.html
からの転載です(以下、改稿中)
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「聖書考古学資料館」の見学にいきます
http://www.tmba-museum.jp/

■待ち合わせ■
07/18(土)PM2:30からPM3:00までの間に
マクドナルド駿河台支店(JR御茶ノ水駅から明治大学方向です。地下鉄新御茶ノ水駅に通じるサンクレール支店ではないので注意)で待ち合わせ。
同じビルの2Fが聖書考古学資料館で1Fがマクドナルドです。

下記↓の掲示板を活用することも可能です。
「途中合流連絡用掲示板(携帯兼用)」
http://ip.tosp.co.jp/DG/TosDG100.asp?I=i9dai&P=0

2009/05/27

半田稲荷神社神代文字和歌碑文解読

「半田稲荷」でgoogle検索すれば、江戸時代の享保から文化の頃、疱瘡や麻疹の病気封じと安産で大いに繁栄した神社であり、今よりかなり境内も広かったようです。「願人坊主(フリーの坊さんでいかがわしいとされていた連中)が真っ赤な服装で「葛西金町半田の稲荷、疱瘡もかるい、麻疹もかるい、運授・安産御守護の神よ」と面白おかしく歌って(歌詞はサイトにより多少違いあり)踊り歩いたのが関東全域はもとより京都大阪まで有名になり、歌舞伎にもなったとのこと。歌舞伎については最近も上演例があるようで。

神代文字の碑文はずいぶん古い時代に埋もれたらしいということしかわからない。
江戸時代後半だともう少しましな古典的な文語体で書くようになると思うのでそれよりは古いかも知れない。また半田稲荷が有名になった後に作られたなら、病気封じに関する内容になったのではないかな。

歌の前に「カミウタ」とあり、歌の後に「ア」とある。このアは吾郷清彦は「ウ」だというが所見ではケンペルマンの「ア」とする説で問題ない。「嗚呼」の意味だろう。もしくは「アア」、「アハレ」など続きがあったものが当時すでに碑文は割れて断片になっていたか。

初句は「かみはゆく」。この「かみ」は年長者・上位者・主人・天皇などをもさしうるので、強いて神社の神とばかりも決められないが仮に「神」とすると、「神は往く」は「神が去った」の意味だとすると不幸を暗示しうる。が、どちらというと雪の語源が神の御幸(みゆき)であるように神の臨在をいっているのだろう(祭日での神輿の往来とか)。あるいは二句三句の解釈によっては「神速く」の訛りという線もありうるか? 年長者・上位者・主人・天皇などを「かみ」ということもあるので、あるいは未亡人が夫の死去に際して詠んだ歌かも知れず、あるいは誰かが天皇崩御の際(時代の変わり目)に人生を振り返った歌かも知れない。
二句三句が問題の未解明部分。P=ケンペルマンは「としきはとまね かねこなる」、吾郷清彦は「ひきこはひまひ かひやふる」と読んだが、この二つの旧説ではどちらも意味不明。
四句と五句が「真澄鏡(ますみのかがみ)面変(おもか)はりてや」(訳:鏡をみると(歳をとって)顔が変わったなぁ)。真澄鏡は定型的な言い回しで、この場合は神社の古式の鏡を念頭におきつつ(御神体とかでなく)鏡の映り具合をほめているだけで、訳文の上ではあれこれ言わず単に「鏡」とするのがいいと思う。

なので未解明の二句三句はその文中にあって歌としての文意がつながらねばならない。全体としては、何か目出たいことか不幸なことがあり、年月を感じるという意味の歌らしい。

二つの旧説の解読文はどちらも意味不明だが、文法を無視して強いて意味を想像すると、ある程度の意味を想定はできる。

ケンペルマン説の「としきはとまね かねこなる」は「年来は(年際? 年月は?)止まね、予事成る」だろうか。予事(かねごと)は予想されたことという意味の古語、「かねこ」は少々ムリがあるが「かねごと」の縮約語とすると、「年月の流れは止まない、予想された通りになった」の意味か。和歌として成り立たなくはないが、老化を嘆くだけの暗い歌で、神社の碑文としては少し陰鬱すぎないか? 
何かもっと目出たいことを祈願したものと考えた方がありそうに思う。

吾郷説の「ひきこはひまひ かひやふる」はさらに解釈が困難。とはいえ吾郷は文字の音価を定め直そうとしただけなので文意は考えてないのは当然だが、そこをムリして解読を試みる。ひまごを「ひこ」ともいうので「曾孫たち」の意味で「ひここ」、または「曾孫である子」の意味で「ひここ」といったもの、その「ひここ」が訛って「ひきこ」? 「はひまひ」は「這ひ迷ひ」(這い回り逃げ惑う)、「祝ひ舞ひ」(お祝いに舞い踊る)とまったく逆の二つの解釈ができる。「かひやふる」はさらにわからない。彼火矢降る(あの火矢が降って来た)、甲斐や溢る(生きた甲斐が溢れるほどあった)、貝や炙る(貝を焼いている)、穀破る(脱穀する)、甲斐屋振る(甲州屋が繁盛してる)等、こじつけはできるが、どれもややムリヤリな感じ。曾孫が出てくる第二句は年月の流れを連想させる下の句とよくつながるのだが、全体的にスッキリ繋がらない、とくに第三句が酷い。

3行目の解読で1文字目と5文字めは一見してまったくちがう文字であるにもかかわらず、どちらもケンペルマンは「と」、吾郷は「ひ」と読んでる。7文字目と9文字目は同じ文字であり、ケンペルマンは「ね」、吾郷は「ひ」と読んでる。5文字目と7・9文字目はまったく違う文字であり、すべて「ひ」と読む吾郷説はいただけない。「ひ」「と」「ね」の3文字を比べると、すべてぐにゃぐにゃの線で区別がつかないように思うかも知れないが、いくつかの書体例から草書に崩れる前の原形を推定すると、案外にシンプルな「決め手」がそれぞれ決まっているのが判明する場合がある。「ね」は上の横棒の右端から下に線が下がった形(「フ」の「ノ」が真っすぐになった形)であり、「と」は「ヘ」のような平らに近い形である。「ひ」は平らににゅろにょろな文字だが決め手がわからない。
5文字目は「ひ」よりもはっきり「と」に似ているのでケンペルマンの説に従いたいが、7・9文字目は「ね」ではない。「ひ」は輪を上に結ぶ文字でもしその向きが決め手ならこの下側に結ぶ文字は「ひ」ではなくなるが、最後の左端から下方内側へ向かう撥ねが決め手ならば「ひ」に近いように思うので吾郷説を採る。問題の1文字目は「ひ」でも「と」でも「ね」でもなく、悩むところだが「ふ」だろうな。「ふ」も「ひ」と同じく、ただ横ににょろにょろしてるだけの文字だが「m」のように山二つの高さが揃うのが決め手らしい。

吾郷は2文字目を「き」、3文字目を「こ」とするが、ケンペルマンは3文字目を「き」、10文字目を「こ」とする。ケンペルマンは2文字目を「し」、吾郷は10文字目を「や」とする。「し」「き」「こ」「や」はどれも「フ」をぐにゃぐにゃに書いたように見えるが、全体的に「こ」は「く」の逆向き、「し」は「Z」、「き」は「7」のような印象になり、「や」は線の中程で右側に瘤のように張り出るのが決め手。
2文字目と10文字目はケンペルマン説でよいが、3文字目は「き」でも「こ」でもなく「や」だろうな。

11文字目はケンペルマンは「な」、吾郷は「ふ」とする。「な」の決め手は原形が「L」。
確かにこの書体では「ふ」の決め手も重合しているのだが、もし「ふ」だとすると、まったく違う文字にみえる1文字目に該当する文字がなくなってしまい読めなくなってしまうので「な」を採る。

3行目はP=ケンペルマンは「としきはとまね かねこなる」、吾郷清彦は「ひきこはひまひ かひやふる」と読んだが、以上の検討結果、第三案として「ふしやはとまひ かひこなる」と読んでみる。

新案の「ふしやはとまひ かひこなる」はとりあえず「富士や鳩舞ひ、蚕なる」と思いつくが、これでは旧案同様、意味をなさない。あれこれ考え、「伏屋は富まひ」と解いてみた。
「ふしや」は「伏せ屋」(みすぼらしい家という意味の古語)の訛りではないかな。「とまひ」は「とまふ」。「富む」に成し遂げることを表わす助動詞「あふ」がついた「富みあふ」の縮約語。「ついに豊かな家になった」の意味。もしくは「富む」に状態が継続することを表わす「ふ」がついた「富まふ」。「豊かな家になっている」の意味。
そうすると第三句は「蚕なる」でも意味は通り、むしろ語感はその方が自然だが、少し面白味に欠けるので、別の解釈も試みる。「ひこ」は「曾孫」、「なる」は「生る」(うまれる)。今でも子ができることを「子をなす」という。「か(彼)〜」は少々わかりにくいが「あっちにいる我が子には〜」もしくは「あの子の〜」というニュアンスの接頭語。
結論、「みすぼらしかった我が家も豊かになり、もうすぐ曾孫も生まれる」の意味。完璧にスカッとはいかないがどうだろうかな?

全文新訳試案
「カミウタ カミはゆく フシヤはとまひ かヒコなる マスミのかかみ オモかはりてや あ」
「御神歌 主は逝く 伏屋は富まひ か曾孫なる 真澄鏡 面変はりてや 嗚呼」

(この社の神に捧げる歌
 「歳の離れた夫が逝き ふりかえれば
夫とともに暮らしたみすぼらしかった我が家は今では豊かになっており
あそこにいる我が孫にもうすぐ曾孫も生まれる
鏡をみれば自分の顔も歳とともに変わってしまったものだなぁ」
あーあ[こんな歌を詠んでしまったよ、という詠嘆w])
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【告知文】05/31(日)春の遠足3・飯島愛追悼企画「ウチくる!?」形式で弁天様に捧げる幻の漫画「飯島愛私の初体験」と神代文字の石碑より転載

飯島愛がレギュラー出演していた懐かしの番組「ウチくる!?」と同じ形式で、Fridaさんの住む町をFridaさん自身が案内してくれる遠足です。下記のプログラムの合間ごとにFridaさんによるいろいろな面白い地元案内がアドリブで入ります。

1)柴又寅さん記念館
柴又駅の駅前にあります。ここで見学しながら、のんびり合流。(参加者が集まるのを待ちながら見学)
朝9時の開館から遅くても12時までにお入り下さい。

2)12時半、軽くお昼をとります。近くに「biscuit」と言う美味しいケーキ屋さんもあり。水元公園での飲み食いがメインなのでここは食べ過ぎないように。

2)午後1時、レンタサイクル。以降のコースは自転車で。
http://www.eco3196.com/rental_tokyo00004.html

3)三社めぐり
・金町の葛西神社→半田稲荷神社→東水元の香取神社
祭り囃子発祥の地とされる由緒ある古社で今も盛んに信仰されている芸能の神様弁天様に、飯島愛の冥福をあらためてお祈りします。江戸時代以来疫病封じで名高い神社には、インフルエンザの危ない時期だからこそ念入りにお参り。境内の碑文は1877年に来日した考古学者ケンペルマンによってドイツの雑誌に紹介され阿比留草文字で「カミウタ カミハユク トシキハトマネ カネコナル マスミノカカミ オモカハリテヤ ア」とありましたが残念ながら十年以上前に破壊されて今はありません。古図録のコピーを配布して昔を偲ぶよすがとする予定。香取神社に着くまでに、いろいろ食べ物買いながら行きます。

4)水元公園
素晴らしい公園でゆっくり散策したり飲み食いしながら飯島愛の思い出を談ります。美味しいケーキ屋さんやアイスクリーム屋さんもあり。話のタネに、現在入手不可能な幻の漫画「飯島愛 私の初体験」を参加者全員に配布。死の真相や業界裏話などはかなり深く調査済みなので、話の流れ次第ではそういう話題も出るでしょうが、あくまで故人を悼み、その功績に感謝を捧げ、冥福を祈るのが主旨です。

2009/02/12

「てこな伝説」の旅

【告知文】05/06(休)春の遠足2・薄幸の美少女「てこな伝説」をめぐる古代ロマンの旅より転載

「てこな伝説」は千葉県市川市に伝わる伝説で、その物語は、愛情の板挟みになったアイドル的女性が自害する(または殺される、月の世界や天上に帰る等)という物語類型の一つです。この類型は「てこな伝説」を含めてそれ以外にも『万葉集』に数話が載っており、登場人名を変え各地方ごとのバリエーションを生んで広く展開したものです。日本初の創作小説かぐや姫の元ネタであることはもちろん、現代の芸能人をめぐる事件でもこの「神話的原型」は繰り返し現われるもので、現代人にも感情的に惹き付けられるものがあり、その思想的意味は興味のつきないものがあります。
また近隣には古代史に関する見どころも豊富。当日は特製レジュメを配布予定。

時間■朝10時集合。ただし携帯電話など連絡手段を確保している場合は途中合流も可。

場所■メディアパーク3階「市川市文学プラザ」(JR本八幡駅から15分・都営新宿線本八幡駅から17分・京成八幡駅から20分/市川市鬼高1-1-4電話047-320-3354)

■当日の行動予定
1)まず上記の集合場所を会場として開催中の「てこな−その姿をもとめて」を見学。
2)次にてこな伝説の伝承地の由来物件を見て歩きます。京成八幡駅から国府台駅にいきそこから徒歩で
・手児奈霊堂
・真間の継橋
・浮嶋弁財天の名妓の碑
・亀井院の真間の井戸
・真間山弘法寺(手児奈の菩提寺)
をめぐります(ただし最後の弘法寺は離れ過ぎているため省略の可能性大)
3)時間の余り具合によって下記のコースAかコースBを選択します。
案A(バスで行くコース):いったん国府台駅に戻りバスに乗って「小学校前」で降りそこから徒歩で「堀之内貝塚公園考古博物館」を見学します。
案B(徒歩で行くコース):参加者の希望により、郭沫若記念館・下総国分寺・下総国分尼寺跡・里見公園(国府台城跡・里見の姫・明石古墳石棺)・総見寺(江戸時代曹洞宗総管)・じゅん菜池公園・小塚山公園(古墳)など近隣の史跡名所から2つか3つ選択して(全部はムリ)、道すがら見学しながら徒歩で「堀之内貝塚公園考古博物館」をめざします。

2008/12/10

12/07神道霊学研究/茂呂山遺跡探索調査

神道霊学研究/茂呂山遺跡探索調査

■12/07(日)午前10時より
■東上線上板橋駅改札待ち合わせ

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附論:「ヨセフの塚」について

【序】
有名な阿不利神社の鎮座する神奈川県の大山、その麓に「真磬塚」(しんけいづか)とよばれるマウント状の古墳がある(現在では浄水場や民家がつくられ上部が平らに変形している)。この古墳が一部のへんな人たちの世界では「ヨセフの塚」として有名なもの。これをめぐるあれこれのおもしろい話はいろいろあるのだが、すべてを語れば本1冊にもなるので省略。この「真磬塚」及びその近辺はおもしろいものが多く、古代ミステリーマニアが探索するのにはおすすめの楽しいところではある。

【第二の大山】
さてこの「大山」、単純な地名であるだけに関東各地に大山という地名が残る。多くは阿夫利神社へ詣でるために張り巡らされていた街道「大山道」(おおやまみち)の出発地点や岐路、主要な宿泊地だったところという。その一つが、東武東上線「大山駅」(板橋区大山町)である。
そもそもこの町との出会いは、オカルトブームで『ムー』の読者たちの多様な民間サークル活動が花盛りだった80年代。「デビリッシュ♥アイ」「アールブヘイム妖精館」「隠れ里」…その他いろいろのサークルがあった。これらが連帯して活動するために「妖怪連合」という協力推進団体が存在した。といってもお互いのイベントに頭数を出し合ったり合コン飲み会したりコミケに出した機関誌を交換したりという程度だが。この「妖怪連合」のイベントが大山で催され、それに参加したのが始まりだった。
上記の「隠れ里」は妖怪研究会としてその後、現在活躍中の多くの有名な妖怪業界人を輩出したが、私も一時期、隠れ里の会合や遠足に何度か参加したものである。
とはいえ、大山のイメージは当時はあまりよいものではなかった。なんとなく垢抜けない泥くさい当時のオカルトサークルにはミスマッチな、それでいてとりとめもなくまとまりもない田舎の印象だった。

【問題の出所】
神奈川県の大山でなく、この板橋区の大山にもヨセフの塚がある、という話をきいたのは今から20年以上も前のことで、それまで聞いた事もなく、大山という同名に紛れた間違いだろうと断定したのだが(つかそもそも元のヨセフの塚自体がヨタ話なのに間違いも糞もあるかって話もあるがそれはさておき)、この話を教えてくれた齋藤靖という人は、「いや、間違いではない、遺跡かなんかあったんだよ、何人かで見に行ったこともある」と言い張っていた。実際、大山にいってきたのだがよくわからなかった。「道祖神とか庚申塔みたいなもの?」と聞いたが「そうじゃないよ、ちゃんとした遺跡だよ!」とのことだった。あるいは「大山じゃなくて、大山の『近く』のどこかでしょう?」と確認したが、「いや、ずばり大山だったはずだよ」と譲らない。私の疑問は宙ぶらりんになった。それが20年来の気がかりだったわけである。
彼はうそをいうような人ではない。この齋藤靖って人は『ムー』が扱うようなネタ全般という意味での「オカルト」関係者で、その人脈の多彩さと人望と性格の面白さとカバー範囲の広さ(鎌倉の洞窟探検譚など今でも謎に満ち興味深かった。最後に会った頃は、鍼灸や整体など身体医術にハマっていて「仙骨一元論」を唱えていた。発明家で身体医療家でなんでも屋の、得体の知れない人で顔は山口良一)で、なかなかの好人物であり、堤裕司とも長年のコンビだった(堤裕司氏は日本最初のダウジングの専門家で「日本ダウザー協会」を設立。80年代には心霊現象を解消するプロ「ゴーストバスターズ」を結成し写真週刊誌やテレビなどにかなり出ていた。その頃から斎藤・堤の両氏は疎遠になったという。ちなみに私も入れて三人ともほぼ同年。オウム世代?w)。そんな人間、いちばん信用ならねぇ典型的なタイプじゃねえかよ、といわれるかも知れないが、そうではない(ある意味そうだけど)。ある枠組み(というか約束事というか)の中では誠実なものなのである、我々は(俺もかよ)。

【大山町の探索】
そこまではいいのだが、そういうわけで私は機会があるごとに(といっても10年に1回とかその程度だが)板橋区の大山に出かけたり、調べたりしたものだった。それでまず驚いたのは、記憶の中の大山町の面影が全然なく、まったく別の町のように思われた。建物や景色だけでなく地形も地図も何ひとつ記憶と噛み合う部分がない。狐につままれた気分。もしかしたらまったく別の町を大山町だと間違えて記憶してたのかも知れない。大山駅から歩いたのは確かなのだが…? それはまぁさておいて、ともかく大山駅のある大山町の他に大山東町・大山西町・大山金井町が隣接しておりこれらを合わせた四つの町を広義の大山町(大山4町)とみても、調査に苦しむほどの広さはない。
しかしこの範囲にはめぼしい遺跡はない。
関東平野は長い間中央からみれば田舎で平安時代に武士が発生した頃からようやく開拓されたかのように思われがちだが、実は意外にも先史遺跡のひじょうに密集した地域なのである。旧石器時代や弥生時代も多いが、縄文時代と古墳時代がとくに充実して(縄文といえば東北地方が中心だが、こと縄文中期に限っていえば関東が中心だった)いて、住居遺構や貝塚はいうまでもなく、古墳が多いのも目につく。東京都が公開している遺跡地図をみると、ほぼ東京全土が遺跡の上にあるといっても過言ではない。
にもかかわらず、大山4町は、まるで遺跡と遺跡の間に落ちたように、遺跡地図に重ならないのである。大山4町から離れてしまえば、近隣にめぼしい遺跡はいくらでもあるのだが、逆に多すぎて特定できない。もっともメジャーな遺跡は、「茂呂山遺跡」といい、大山駅から二つめの上板橋駅から徒歩10分ほどのところにある。特に目立つのはこれだが、しかしこれだとあまりにも離れ過ぎである。大山町からはずれる場所ならば、最初からその地名でいえばいいのであって齋藤氏が「大山」にこだわった意味がない。
一度、これといった手がかりもないまま大山駅周辺を探索してみたものの、駅の近くの「子易神社」がおもしろかった他は、とくに何の収穫も得られなかった。「子易神社」は霊験もあらたかで由緒もあり、境内社の宗像神社は小さな祠でその泉は今でこそ汚い池だが往事はさも美しい水苑だったろうと思わせる風格がある。

【謎の解明】
結局なにもわからず仕舞い。それなら事のついで、近くなことだし、有名な「茂呂山遺跡」(上述)でも見ておくか、というわけで「茂呂山遺跡」の地図を詳細にみると、あにはからんや、「大山高校」の隣ではないか???
ここは大山町ではない。小茂根5丁目というところで同じ板橋区内とはいえ大山4町とはだいぶ離れている。
しかし、誰でも瞬時にはっきりと確信するだろう、つまり、齋藤氏のいっていた「大山」というのは「大山高校の隣」だったために、あのへんが大山という地名なのだと誤認していたに違いないということを。
だがなぜ大山でないところに大山高校があるのか? 大山高校に直接電話して確かめたところによると、そもそも大山高校はかつて夜間高校で今の栄町にあった。栄町は大山町と大山東町に隣接するものの、大山4町とは別の町である。しかし夜間高校ということで通学の便宜から最寄駅の名をとって「大山高校」と名付けられた。後に全日制となって現在の地に移転してからも、伝統ある学校名を継承維持してきたという。

【茂呂山遺跡】
茂呂山遺跡をみることができるのは三つの側面で道を挟んで大山高校側、それと石神井川に接する側、大山高校の反対側。どれも金網の柵が巡らされて入れず見え具合は一長一短で少々じれったいが石碑や表示板は立っている。他の側面は民家や建設会社の敷地に阻まれてみえない。面積としてはきわめて狭小というしかないが住宅街の中ではこうなってしまったのもやむをえない。古くは大山高校の敷地や石神井川を挟んで北に位置する城北中央公園なども含む広大な地域が「茂呂山」(もろやま)と称したという。
現在の茂呂山遺跡は広義の茂呂山の中心部で、かつての住民はここ(広義の茂呂山の中心)を茂呂山ではなく「オセド山」と呼んでいた。みた感じ地面が盛り上がって高くなってるだけで、一面ただの雑木林である。
日本考古学上、きわめて重要な遺跡であり、これに匹敵するものは群馬県の岩宿遺跡しかない。どちらも縄文時代以前の、旧石器時代の遺跡である。

【セド】
ところでこの「オセド山」という名が気になる。
オセドというのは原型は「セド」で、地名や姓として全国に存在する。
セドまたはセトと読む場合には「脊戸・背斗・勢戸・瀬戸・瀬斗・門廻・世登」などと書き、セドウまたはセトウと読む場合には「背洞・瀬洞・瀬東・瀬道・瀬藤・世道・勢頭」などと書く。語頭に「御・尾・小」などがついて「オセド」「オセドウ」などとなっている場合も多く、さらに「御伊勢堂」と訛って神明宮(伊勢神宮の分社)が祀られるに至り、語源と由来が逆転しているケースもある(神明宮を祀ったのが先でそこから「御伊勢堂」という地名が起こったという解説を稀にみかけるが誤り)。姓としての「門廻」(せど)氏は金沢市周辺にあり全国でも数世帯しかない珍姓。
このセドなるものは、一般的な説でいわれるのは「背(すなわち後ろ)の戸」の意味で、第一に裏口や勝手口の意。第二に家の裏庭または裏手の土地(裏口から出た所だから)。第三に裏庭や家の裏手にある「井戸」。実際にこれらの意味で使われていることもあるが、それだけではない何かがありそう。
これらの地名には考古学と縁がある。青森県五所川原市のオセドウ貝塚遺跡から人骨が発見されており、これが長腿彦の骨じゃねぇべかってんで一部のへんな業界(『東日流外三郡誌』関係業界)の人々の間で有名だが、そんなヨタ話はさておいても、全国の「セド系」の地名には人骨が発掘されたり貝塚や古墳だったりする例が多い(ちなみに貝塚をゴミ捨て場と思ってる人がいるがとんでもない間違いで、食べ物となった生き物の霊=幸(さち)を与えてくれた神霊の祭祀場である。アイヌの熊を祀るごとし)。
貴人の葬儀を行なってそのまま墓地にするような所ならば、「去り所(さりど)」というような意味だったのではないか。いずれにしろ、セドというのは意味や語源の辿れない太古の言葉の残存で、なんらかの聖地だった所のように思える。

【結】
すったもんだで今回は「考古学の見学」ではなくてほとんど「霊視・霊査の旅」だったわけだがw
脱線はこのぐらいにしてしてそろそろ本題に入ろう。「ヨセフの塚」をめぐるあれこれのおもしろい話はいろいろあるのだが、今回は省略。もし神奈川県の阿夫利神社のある大山の麓を散策する機会があれば、その時に改めて詳しく問題にしたい。

2008/05/10

「古事記を読む会10」08/05/17【告知&レポ】

【告知文】
日時■2668年05月17日[土]午後1時半会場・2時開始
場所■池袋「ちどりの巣」池袋駅北口3分、ロマンス通り沿いロサ会館の隣、西形ビル6階(1階はやきとん「千登利」)豊島区西池袋1-37-15

「古事記」の読み下し文の購読・解説。
皇位の男系継承保持の必要性について認識を深めることをめざしつつ、国文学・歴史学などの方面はいうまでもなく、人類学・神秘主義(神道霊学等)・政治思想・世界史・國體論などあらゆる観点からの見方を提示します。

1)【顕宗天皇と志毘臣との歌垣】ガイド役/しか

袁祁命(即位前の皇子時代の顕宗天皇)と志毘臣(平群鮪)とが歌垣で女性を争ったという歌物語を扱います。結構、味わえます。

2)【暴走する少年・倭建命と雄略帝】ガイド役/むらさぎ

二方の少年時代を読み比べ、現代の残虐な少年犯罪と「やまとごころ」との関係について考えたり考えなかったりいろいろ。結構、笑えます。

3)その他、神武天皇崩御後の兄弟の皇位争いである【當藝志美々命の変】の段や、神功皇后新羅征伐へと続く【仲哀天皇崩御】の段なども考えています。

4)基本的には当日参加者の希望で適当にきめます。従って上記1)2)3)もあくまで仮の予定であり、実際にはまったく別の内容になる可能性もあります。

今回は、昨年九回にわたって催した「古事記を読む会」の第十回に当たります。
過去の内容の詳細は↓
http://kokutai.blogspot.com/2007/12/blog-post.html
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※この掲示板の下の方にある「管理者へメール」をクリックして古事記のどの部分をやりたいか希望を書いてメールを送ってください。左翼・女系派・社会主義者・日猶同祖説や竹内文献の信者・邪馬台国オタクは参加できません。

※会場費:一人500円。(飯でも菓子でも各自飲食物持ち込み自由)

※午後5時から同場所で懇親会あり(飲食代各自実費)

お願い■もし角川文庫本の「古事記」等おもちの方はご持参ください。わざわざ買わずに手ぶらでかまいません(資料を配布するので大丈夫。新規にお買い求めになられる場合は、岩波文庫や講談社学術文庫よりも角川文庫を推奨)

※待ち合わせ連絡用/オフ会当日専用伝言板(PCと携帯の両方に対応)
http://ip.tosp.co.jp/DG/TosDG100.asp?I=i9dai&P=0
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その他のオフ会はこちら↓
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=802056909&owner_id=1311572

2007/12/12

愛國百人一首大会08/01/05【告知&レポ】

【告知文】
「愛國百人一首」は、万葉時代から幕末にかけての愛國の名歌百首を選んだものです。そのすべてが大和魂をふり起こさせる素晴らしい和歌であります。かの大東亜戦争中には全国津々浦々で愛吟されていたのですが、悲しいかな、GHQの占領政策や左派の跳梁などにより、戦後日本からは消し去られてしまいました。失われたあるべき日本を取り戻すための平成二十年の第一歩として、「愛國百人一首」に親しみ、その精神にふれ、皇室と日本への思いを新たにしませんか。

日時■2668年01月05日[土]午後1時開場

場所■豊島区勤労福祉会館5F第1和室
池袋駅南口メトロポリタンホテル方向徒歩3分 池袋警察署並び
03-3980-3131 地図http://nihon.lar.jp/02.html
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進行■

・午後1時/前座
 一、【雑談】「愛國百人一首」及び本日の遊戯について簡単な解説
 二、【予戦】敬宮愛子内親王殿下ご愛用「相撲すごろく」
※開会までは待ち合わせがてら雑談したり「すごろく」で遊びます。

・午後2時/本会
 一、開会挨拶・本日のイベントの趣旨説明及び簡単なルール説明
 二、【本戦】愛國百人一首 進行朗読/小林隆・伝承文化研究所
 三、【余戦】論語いろはカルタ・論語百人一首
 四、優勝者表彰及び賞品授与
※競技そのものよりも「愛國百人一首」を楽しみ親しみ慣れることを目的とします。
※時間配分などは実際の情況で適宜に変更。時間が不足する場合は【余戦】は省略。

・午後5時/第一次解散。場所移動の後、新年会(池袋駅近辺)。
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主催■(共同開催)
伝承文化研究所
http://mixi.jp/view_community.pl?id=1686247
https://sugi-ck.net/sugi/pages/gp/nihonbunka/
皇室と日本を考える
http://nhlar.blogspot.com/

賛同協力■
女系天皇に断固反対する会(mixi)
http://mixi.jp/view_community.pl?id=334458

【レポ文】
司会:「皇室と日本を考える」では、皇紀2668年の新春イベントとして「伝承文化研究所」と共同で、正月五日に愛國百人一首大会を開催しました。本日は雑談がてらレポをしたいと思います。

むら:両団体の共同開催ってことで事前の話し合いがちょっといつもよりはたいへんだったかな。しか師匠、折衝役やレジュメの準備やら、いろいろとよくやってくれました。

しか:ありがとうございます。むらさぎ師匠も、愛國百人一首の準備などなど、お疲れ様でした。当日は大いに盛り上がりましたね。

むら:みんなマジで取りにきてたもんな。俺は気軽に楽しくやろうと思ってたのにガチンコかよって。源平戦形式で俺の向かいがたまたまFrida師匠で、手加減してやろうかと思ったらそんな必要まったくなかったし。

しか:Frida兄は闘魂あふれる札取りで13枚獲得し、個人成績では3位でしたが、読み手をやってくださった伝承文化研究所の小林隆先生からも最優秀選手賞に選ばれましたね。

司会:右派界隈で有名な和歌だったりすると激しい取り合いバトルになりました。個人成績は初参加なのにいきなり15枚もとって優勝した2chの蘭川さん(=靖国オフの幹事さん)の他、10枚以上とった人が5人、5~9枚とった人が5人、2~4枚の人が3人くらいだったかな? 遅刻してきたのに6枚とってた人もいました。源平戦って形式はチーム対戦だから誰でも2・3枚はとれるようです。

むら:なんでみんなそんなに取れるんだ???俺は5枚だよw

司会:ちなみに参加者は全部で13名(二次会のみ参加を入れると14名)、中でも小林先生の招待で、靖国ラップ・改憲ラップで有名な「英霊ライズ」(英霊来世:AreiRaise)のメンバー2名が参加してくれたのには、びっくりしました。そして彼らのブログにもレポートが!
(※http://blog.areiraise.com/?eid=655798#comments)

しか:英霊ライズは私の思ってたイメージと違って(失礼!)、物腰の柔らかな素晴らしい方々でした。皆さんも是非応援しましょう。

司会:紀元節にもライブがあるようです。それにしても愛國百人一首には、小倉百人一首と違って、右翼心がくすぐられる素晴らしい歌がたくさんありますね。特に自分は、
・君がためいのち死にきと世の人に語り継ぎてよ峰の松風
(松本奎堂)
という歌に感激しました。

しか:こらこら右翼心なんて卑下してはいけません。大和心といいましょう。もしくは日本精神でもよい。

むら:いや、ウヨ心でいいよw ついでに俺も今思いついたんで、好きな歌一つあげると、
・後れても後れてもまた卿(きみ)たちに誓ひしことをわれ忘れめや
(高杉晉作)
どぉ?この歌っていくない? しかさんもおすすめの歌をいくつかあげてみて下さいよ。

しか:そうですね。ではせっかくですので、日本国の臣民ならこれぐらいは知っておいてほしいという名歌を紹介したいと思います。
・皇(おほきみ)は神にしませば天雲の雷の上に廬せるかも
(柿本人麻呂)
・今日よりは顧みなくて大君のしこの御盾と出で立つ吾は
(今奉部与曾布)
・かへらじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる
(楠木正行)
・しきしまの大和ごころを人問はば朝日に匂ふ山ざくら花
(本居宣長)
・身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし日本魂
(吉田松蔭)
もちろんこの他にも素晴らしい歌が多くありますので、皆さん、是非勉強してみてください。ちなみに僕が一番好きな歌は、
・みちのくのそとなる蝦夷のそとを漕ぐ舟より遠くものをこそ思へ
(佐久間象山)
です。

むら:ただ聞いても現代人には難しくてとっつきにくい歌も中にはあるけど、小林さんが和歌を読み上げる合間合間にいろいろ解説してくれたので、理解しやすかったんじゃないのかな。時々入る蘭川さんの博識ぶりも聞いてて面白かったし。

しか:小林先生本人はまだまだ話したりないようでしたが、それはまた来年のお楽しみとなりましょうか。最後に小林先生から、年内になんとか愛國百人一首を復刻したいという熱いお言葉がありました。僕自身も協力できることはしたいと思っています。

むら:小林さんの考えてるのは戦中の実物の完全復刻版だけど、二次会にいく途中で蘭川さんはアニメ調の萌え系の絵で作ってコミケで売るような話してたぞw

司会:じゃあ2種類できるのでしょうか? どちらが先になるにせよ、楽しみも2倍ですね。今日はお忙しい中、ありがとうございました。

(正月某日、都内某所にて)

2007/12/10

おまけ企画09「記紀を考える」07/12/15【告知&レポ】

【告知文】
12月15日(土)「記紀を考える」のお知らせ

当会の12月23日のオフ会のお知らせの中にある、12月15日の別企画の内容です。
(本サイトの更新が遅れている場合には↓
http://nhlar.blogspot.com/2007/11/1120.html
に12月23日のオフの告知があります)
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おまけ企画「記紀を考える」

今回は古事記・日本書紀の神話を読み解く上で、前提として必要な(1)古代文化への理解と歴史学の古代像の検討、(2)古伝承の消失過程と保存運動としての記紀編纂に至るまでの歴史事情について考察。
単なる古代史の話だけでなく前回の「川面・友清・荒深・田中、神道霊学の四大人」との継続性にも配慮しつつ、余裕があれば今年一年の全九回にわたった「おまけ企画」の総集編的な内容にしたいと思います。

日時■2667年12月15日(土)集合:午後1時30分/終了:遅くても午後4時前後(±30分くらい)

場所■JR日暮里駅東口「ルノアール日暮里東口店」で待ち合わせ後、近所に移動(以前に使ったことのある西日暮里店とは別です。西のつかない日暮里駅前目の前の交番すぐ裏。待ち合わせ場所の変更などは下記の「待ち合わせ用掲示板」で確認して下さい)
※待ち合わせ連絡用/オフ会当日専用伝言板(PCと携帯の両方に対応)
http://ip.tosp.co.jp/DG/TosDG100.asp?I=i9dai&P=0

※各個人の自由な飲食代以外は、参加費などすべて無料です。

※このイベントは下記↓の12月23日(祝)開催のイベント「天長節・宮中一般参賀」のオプションイベントですが、内容的な関係はないので、これとそれと、どちらか一方だけの参加でもOKです。
(2chでの告知)
http://sports11.2ch.net/test/read.cgi/offmatrix/1166609691/878
(mixiでの告知)
http://mixi.jp/view_event.pl?id=25932734&comm_id=334458

【レポ文】
(※終了後、掲載予定)

おまけ企画08「川面・友清・荒深・田中、神道霊学の四大人」を語る07/12/02【告知&レポ】

【告知文】
12月2日(日)「川面・友清・荒深・田中、神道霊学の四大人を語る」のお知らせ

当会の11月25日のオフ会のお知らせの中にある、12月2日の別企画の内容です。
(本サイトの更新が遅れている場合には↓
http://nhlar.blogspot.com/2007/11/1111_11.html
に11月25日のオフ会の告知があります)
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おまけ企画「川面・友清・荒深・田中、神道霊学の四大人」を語る
[古事記を読む会通算8th]

内容■
今回は11月25日の右翼の歴史の補足編として、明治から戦前の國體思想史に影響を与え続けた裏神道ともいうべき「神道霊学四派」の開祖である4人の人物を取り上げ研究します。
(4人とは、神社本庁にも影響を与えた「禊祓行」とニューサイエンス的霊魂観、鎮魂「鳥居の伝」などの川面凡児。壮大な陰謀論を説き魔術結社を営み三島由紀夫にも影響を与えた「霊的国防」で有名な友清歓真。九鬼文書やカタカムナにも影響を与えた「超古代史」説と巨石文明を発見し、神道版神智学ともいうべきスターシード仮説や根源人種の霊的進化論を説いた荒深道斉。八階梯に細分した「鎮魂法」を編み出した田中治吾平の4人)

日時■2667年12月2日(日)集合:午後1時30分/終了:遅くても午後4時前後(±30分くらい)

場所■JR新橋駅烏森口でて「烏森通り」徒歩2分右手の「ジョナサン」で待ち合わせ後、近所に移動(待ち合わせ場所の変更などは下記の「待ち合わせ用掲示板」で確認して下さい)
※待ち合わせ連絡用/オフ会当日専用伝言板(PCと携帯の両方に対応)
http://ip.tosp.co.jp/DG/TosDG100.asp?I=i9dai&P=0

※各個人の自由な飲食代以外は、参加費などすべて無料です。

※このイベントは下記↓の11月25日(日)開催のイベント「新右翼を語る夕べ」のオプションイベントですが、これとそれと、どちらか一方だけの参加でも歓迎です。
(2chでの告知)
http://sports11.2ch.net/test/read.cgi/offmatrix/1166609691/851
(mixiでの告知)
http://mixi.jp/view_event.pl?id=24953811&comm_id=334458

【レポ文】
(※起稿中)

2007/11/07

滝行と禊祓(みそぎはらい)を語るオフ 十一月壱07/11/04【告知&レポ】

【告知文】
11/04【東京】滝行と禊祓(みそぎはらい)を語るオフ

奥多摩の山中深い御嶽神社での滝行の体験者にその感想と思い出を語ってもらいます。またそれにまつわる様々な体験、文化学習、諸研究を通じて、尊皇敬神の心を養いましょう。今回は三部に分かれていますが、このうち関心あるもののみ選択参加でも歓迎です。

日時■2667年11月04日(第一部:昼12時半集合 第二・三部:午後1時00分〜午後5時)

場所■第一部:現地集合(池袋御嶽神社:豊島区池袋3-51-2池袋駅北口徒歩15分)
第二・三部:勤労福祉会館5F第一和室(池袋駅南口メトロポリタンホテル方向徒歩3分
池袋警察署並び03-3980-3131http://nihon.lar.jp/02.html)

【第一部】池袋『御嶽神社』参拝
http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/syoukai/19_toshima/19010.html
【第二部】報告会と学習
1[青梅御嶽神社での滝行体験レポ](レポーター:たかし)
2[御嶽神社&熱田神宮&安房神社参拝レポ](インタビュアー:Frida)
参詣・入山の経験者同士が、伊勢と熱田の違いを論じたり、青梅の御嶽と木曽の御嶽を比較したりしながら神域体験を語ります。
3[平安朝の神詠歌と実作指導] (ナビゲーター:石川太郎)
0[テーマ研究]※時間が余った場合(トーク:むらさぎ)
テーマは、
A)禊について:禊祓いの具体的行法と霊学諸派の理論or大祓祝詞にみる古代日本の善悪観の再検討、
B)熱田神宮について:草薙剣と三種の神器をめぐる歴史学と國體における解釈の諸説の再検討orヤマトタケル伝説の史実性の証明、
C)安房神社について:祭司階級としての忌部氏の役割と歴史、中臣氏との比較、古代の神祇制度や祭司氏族の実態、
などを考えています。これらの中から何か一つ。詳細未定。
【第三部】今月の保守論壇(※最終30分ほど)
『諸君!』『正論』『SAPIO』等から、重要な記事・批判すべき記事・面白い記事などを取り上げて、意外・斬新な角度から論評。

※第一・二・三部とも、事前登録は不要ですが、初参加でもし待ち合わせに不安のある方は当日に下記の掲示板(PCと携帯の両方に対応)で連絡を。
オフ会当日専用伝言板
http://ip.tosp.co.jp/DG/TosDG100.asp?I=i9dai&P=0

○参加費:無料(懇親会参加者は飲食代適宜)

主催■「皇室と日本を考える」開催実行委員会
サイトhttp://nihon.lar.jp/ (更新が遅れている場合はブログの方をご覧下さい)
ブログhttp://nhlar.blogspot.com/
掲示板http://8809.teacup.com/imperial/bbs

共催■女系天皇に断固反対する会
http://mixi.jp/view_community.pl?id=334458
2ちゃんスレ■万世一系の皇統を守る9
http://sports11.2ch.net/test/read.cgi/offmatrix/1166609691/l50
---
【オプション企画】11月3日(土)
(自由参加。オマケの追加イベントです。内容未定)
詳細は後日、当会掲示板http://8809.teacup.com/imperial/bbsで告知します。

【レポ文】
今回の参加者は7、8人くらいだったかな。第一部が池袋という都会にありながら静粛森厳な神社ですがすがしく参拝し、いいことありそうな予感。第二部は各自が意欲的にしゃべりたいことをもっていたようで大いに盛り上がりました。議論内容も多彩豊富な充実した一日になり皆が楽しい時間をすごしたようです。最後の[テーマ研究]では、禊祓い行法・三種の神器・古代の政治制度などについて、当会でも最近珍しいのですが、序章程度とはいえ一般の書物では知り難い神道学・古代史・秘教神道の霊学理論などを解説する機会ができ、それなりに深い話になったと思います。第三部は時間切れと不評につき中止。その後、近所で飲み会。

06/29講談「天津罪国津罪からみた神道における正義と悪」

(http://nhlar.blogspot.com/2008/02/1-2.htmlより転載)
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06/29講談「天津罪国津罪からみた神道における正義と悪」

六月末と大晦日に行なわれる神道「大祓」の行。ここで奏上され、もっとも重要とされる「大祓詞」(中臣祓)に出てくる「天津罪・国津罪」の解釈について、古今の諸派のあらゆる学説を比較検討。そこから古代思想における正義論・悪魔論・人生論・幸福論を導きだし、日本人の倫理と生き方を考える。
附論として「女帝と宮中祭祀の諸問題」を扱う。この際、「禍事(まがこと)→罪(つみ=積)→穢(けがれ=気枯)」の三段階論、「ハレ・ケ・ケガレ」の循環説、「祓い・浄め・禊」の意味の範疇、などの解説・整理。

日時■06月29日(日)午後1時半から2時までに下記にて待ち合わせ
場所■喫茶店「らんぶる」B1(地下なので電波不通です)
http://www.shinjuku-chuo.com/shop/lambre/lambre.htm
新宿区新宿3-31-3(丸井の裏)☎03-3352-3361
※午後2時に移動(場所変更)となります

2007/11/03

おまけ企画07「禊祓祝詞・大祓祝詞」を読む会07/11/03【告知&レポ】

【告知文】
11月3日(土)「禊祓祝詞・大祓祝詞を読む会」のお知らせ

当会の11月4日のオフ会のお知らせの中にある、11月3日の別企画の内容です。
(本サイトの更新が遅れている場合には↓
http://nhlar.blogspot.com/2007/10/113.html
に11月4日のオフ会の告知があります)
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おまけ企画「禊祓祝詞・大祓祝詞」を読む会
-----[古事記を読む会通算7th]-----

内容(あくまで予定)■
神道でもっとも頻繁に唱えられ、流派によっては「天津祝詞」ともよばれる「祓詞」と、神道でもっとも重要とされる「大祓詞」(中臣祓)の二つについて、流派ごとの文面や読み方の異同を比較検討。また具体的行法と霊学諸派の理論、そして古代日本の善悪観の再検討などを考察。

日時■2667年11月3日(土)集合:午後1時30分/終了:遅くても午後4時前後(±30分くらい)

場所■ジョナサン神田須田町店(JR&地下鉄秋葉原駅3分・地下鉄岩本町駅2分・神田ふれあい橋と和泉橋の間で神田川沿い・靖国通り岩本町交差点そば03-5209-4830神田須田町2-25山上ビル1F)で集合。集合後、近所に移動。

※待ち合わせ連絡用/オフ会当日専用伝言板(PCと携帯の両方に対応)
http://ip.tosp.co.jp/DG/TosDG100.asp?I=i9dai&P=0

※各個人の自由な飲食代以外は、参加費などすべて無料です。

※このイベントは下記↓の11月4日(日)開催のイベント「滝行と禊祓(みそぎはらい)を語るオフ」のオプションイベントですが、これとそれと、どちらか一方だけの参加でも歓迎です。
(2chでの告知)
http://sports11.2ch.net/test/read.cgi/offmatrix/1166609691/836
(mixiでの告知)
http://mixi.jp/view_event.pl?id=24466367&comm_id=334458

【レポ文】
(※起稿中)

2007/09/23

おまけ企画06「中韓歴史紛争を論ずる」07/09/29【告知&レポ】

【告知文】
9月29日(土)「中韓歴史紛争を論ずる」のお知らせ
 
当会の10月のお知らせの中にある、9月29日の企画内容です。
(本サイトの更新が遅れている場合には↓
http://nhlar.blogspot.com/2007/09/1007_26.html
に10月の告知があります)
------------------
おまけ企画「中韓歴史紛争を論ずるinナマステインディア2007」

内容(あくまで予定)■
10月7日の「高麗神社参拝見学オフ」の予習として、韓国における古代史像の問題を論じます。
1)中国と韓国との間で起こっている「高句麗」や「渤海国」をめぐる争奪戦の詳細とその背後事情
2)北朝鮮と韓国においては「檀君朝鮮」を実在とするばかりか満洲の大帝国で、中国より古い鉄器文明をもったなどの「超古代史」が異端説ではなく常識としてまかり通っています。これらの諸説の検討
3)これらの説の原型は、直接には申采甲という「民族史学」者でありながら、実は戦前の朝鮮総督府が発行した「日韓上古史の裏面」という幻の書物であったこと、さらに「契丹古伝」からの影響などの考察
4)日本書紀の朝鮮関係記事のすべてがまるごとそのまま史実だと丹念に証明しようとした驚異の古代史論「日韓上古史の裏面」が、現代の歴史学界へ与えた隠された影響の跡を晒し、この書の説がどこまで妥当性をもちうるかを検証
5)「中韓歴史帰属紛争」の今後の展開予想と、日本としてのとるべき行動と抱くべき歴史観

※当日は同会場で朝から「ナマステ・インディア2007」(29・30日の両日)が開催中。
日本最大のインドフェスティバルで日印友好と文化交流を楽しみましょう。
公式サイトhttp://www.indofestival.com

日時■2667年9月29日(土)集合:午後1時30分/終了:遅くても午後4時前後(±30分くらい)
(「ナマステ・インディア2007」自体は朝から晩までやってます)

場所■「代々木公園」内、日印交流イベント「ナマステ・インディア2007」会場内

※各個人の自由な飲食代以外は、参加費などすべて無料です。

※このイベントは下記↓の10月7日(日)開催のイベント「高麗神社参拝見学オフ」のオプションイベントですが、これとそれと、どちらか一方だけの参加でも歓迎です。
(mixiでの告知)
http://sports11.2ch.net/test/read.cgi/offmatrix/1166609691/660
(2chでの告知)
http://mixi.jp/view_event.pl?id=23237758&comm_id=334458

【レポ文】
(※起稿中)

2007/08/23

おまけ企画05「超古代文書を読む会1」07/09/01【告知&レポ】

【告知文】
9月1日(土)「超古代文書を読む会1」のお知らせ
投稿者:皇室と日本を考える
投稿日:2007年 8月27日(月)18時49分12秒

当会の9月のお知らせの中にある、9月1日の企画内容です。

おまけ企画「神典を読む会改め超古代文書を読む会1」[古事記を読む会通算5th]

内容(あくまで予定)■
・前回、正統派の古典の数々を学んだので、次ぎはいよいよ(?)超古代文献(偽史)を。
・9月2日(日)の本イベントにおける和歌の勉強にちなみ、五七調で有名な「ホツマツタエ」と「カタカムナ」の二つを取り上げます。話は
ホツマとカムナの自称する由来物語。両書に関する一般的雑学情報。信奉者・支持者の類型分布。両書の内容概略。実際の購読素読(原典資料配布)。文献学的批判・分析。時代背景・裏事情。両書の世界の楽しみ方遊び方、活用法(和歌作りへの応用も…?)。神道の一派としてみた場合のホツマ神道(アメナルミチ)とカムナ神道(直観物理学)の思想の全体像がもつ長所短所。それぞれに内在する政治思想の問題点。それと、いつもの電波業界裏話(今回はホツマ編&カムナ編)
などを考えていますが両書ともに内容豊富なシロモノですので一日で何でもかんでもは出来ません。当日参加者の興味や知識に応じて、上記のいずれかの一部を適当に取り混ぜた内容になると思います。
・特製レジュメ&資料集、無料配布(間に合えばw)

日時■2667年9月1日(土)集合:午後1時30分/終了:遅くても午後4時前後(±30分くらい)

場所■巣鴨駅(山手線・三田線)出て南口側、白山通り沿い左手すぐの喫茶店「伯爵」で集合。集合後、近所に移動。

※お店のお茶代以外の参加費などは無料です。

※このイベントは下記↓の9月2日(日)開催のイベント「慶祝!悠仁親王殿下ご生誕一周年」のオプションイベントですが、これとそれと、どちらか一方だけの参加でも歓迎です。
(mixiでの告知)http://mixi.jp/view_event.pl?id=22022451&comm_id=334458
(2chでの告知)http://sports11.2ch.net/test/read.cgi/offmatrix/1166609691/578

http://nihon.lar.jp/kojiki/index2.htm

【レポ文】
今回も多忙のため特製レジュメは間に合いませんでしたが、そのかわり、ホツマツタエ関係資料は29枚、カタカムナ関係資料は30枚に及ぶ大量の資料を配布。もちろんいつものように、これらの中には現在では入手困難な貴重なものがかなり入っています。
今回はたまたまですが比較的基礎知識の少ない人が多かったので、あまりマニアックな深みにはハマらず、結果的に、広く浅い解説になり、用意していた多くの話題(「告知文」参照)は、ほぼすべてに触れることができました。
関連して「神代文字」の議論もありましたが、これはこれだけで膨大な議論を含む一ジャンルですので、別の機会に譲ることとし、今回は簡単に触れるにとどめました。

ホツマツタエ論の前半では、その問題点を抉摘することで、初歩的な段階にある方々には「免疫」をつけて頂くことに力点を置き、後半ではその文体を実際に味わってもらいました。
カタカムナについては、やや裏話的な話題が多かったかも知れません。現代の捏造であることは詳細に説明しましたが、それにとどまらない思想的な意味について多少のフォローを入れたことは、あるいはホツマツタエに批判的な割にカタカムナに好意的という印象をもたれたかも知れません。
オカルト(神秘学)的な世界観という意味では、ホツマツタエは時代的にもソース的にも、かなり狭いもので、これで世界に何かを発信するのはむりであり、歴史的な役割を終えたものと考えています。にもかかわらず熱狂的な信者のグループがいくつもあることは、これはまた別の次元の問題です。カタカムナもまた持ち上げるほどのものとは思いませんが、しかし現代の綺想科学のひとつとしては、神道的な世界観を探求し現代の言葉に置き換える試みの一つとして(必ずしも評価するという意味でなく)参考に値するものと考えています。