2008年12月10日水曜日

12/07神道霊学研究/茂呂山遺跡探索調査

神道霊学研究/茂呂山遺跡探索調査

■12/07(日)午前10時より
■東上線上板橋駅改札待ち合わせ

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附論:「ヨセフの塚」について

【序】
有名な阿不利神社の鎮座する神奈川県の大山、その麓に「真磬塚」(しんけいづか)とよばれるマウント状の古墳がある(現在では浄水場や民家がつくられ上部が平らに変形している)。この古墳が一部のへんな人たちの世界では「ヨセフの塚」として有名なもの。これをめぐるあれこれのおもしろい話はいろいろあるのだが、すべてを語れば本1冊にもなるので省略。この「真磬塚」及びその近辺はおもしろいものが多く、古代ミステリーマニアが探索するのにはおすすめの楽しいところではある。

【第二の大山】
さてこの「大山」、単純な地名であるだけに関東各地に大山という地名が残る。多くは阿夫利神社へ詣でるために張り巡らされていた街道「大山道」(おおやまみち)の出発地点や岐路、主要な宿泊地だったところという。その一つが、東武東上線「大山駅」(板橋区大山町)である。
そもそもこの町との出会いは、オカルトブームで『ムー』の読者たちの多様な民間サークル活動が花盛りだった80年代。「デビリッシュ♥アイ」「アールブヘイム妖精館」「隠れ里」…その他いろいろのサークルがあった。これらが連帯して活動するために「妖怪連合」という協力推進団体が存在した。といってもお互いのイベントに頭数を出し合ったり合コン飲み会したりコミケに出した機関誌を交換したりという程度だが。この「妖怪連合」のイベントが大山で催され、それに参加したのが始まりだった。
上記の「隠れ里」は妖怪研究会としてその後、現在活躍中の多くの有名な妖怪業界人を輩出したが、私も一時期、隠れ里の会合や遠足に何度か参加したものである。
とはいえ、大山のイメージは当時はあまりよいものではなかった。なんとなく垢抜けない泥くさい当時のオカルトサークルにはミスマッチな、それでいてとりとめもなくまとまりもない田舎の印象だった。

【問題の出所】
神奈川県の大山でなく、この板橋区の大山にもヨセフの塚がある、という話をきいたのは今から20年以上も前のことで、それまで聞いた事もなく、大山という同名に紛れた間違いだろうと断定したのだが(つかそもそも元のヨセフの塚自体がヨタ話なのに間違いも糞もあるかって話もあるがそれはさておき)、この話を教えてくれた齋藤靖という人は、「いや、間違いではない、遺跡かなんかあったんだよ、何人かで見に行ったこともある」と言い張っていた。実際、大山にいってきたのだがよくわからなかった。「道祖神とか庚申塔みたいなもの?」と聞いたが「そうじゃないよ、ちゃんとした遺跡だよ!」とのことだった。あるいは「大山じゃなくて、大山の『近く』のどこかでしょう?」と確認したが、「いや、ずばり大山だったはずだよ」と譲らない。私の疑問は宙ぶらりんになった。それが20年来の気がかりだったわけである。
彼はうそをいうような人ではない。この齋藤靖って人は『ムー』が扱うようなネタ全般という意味での「オカルト」関係者で、その人脈の多彩さと人望と性格の面白さとカバー範囲の広さ(鎌倉の洞窟探検譚など今でも謎に満ち興味深かった。最後に会った頃は、鍼灸や整体など身体医術にハマっていて「仙骨一元論」を唱えていた。発明家で身体医療家でなんでも屋の、得体の知れない人で顔は山口良一)で、なかなかの好人物であり、堤裕司とも長年のコンビだった(堤裕司氏は日本最初のダウジングの専門家で「日本ダウザー協会」を設立。80年代には心霊現象を解消するプロ「ゴーストバスターズ」を結成し写真週刊誌やテレビなどにかなり出ていた。その頃から斎藤・堤の両氏は疎遠になったという。ちなみに私も入れて三人ともほぼ同年。オウム世代?w)。そんな人間、いちばん信用ならねぇ典型的なタイプじゃねえかよ、といわれるかも知れないが、そうではない(ある意味そうだけど)。ある枠組み(というか約束事というか)の中では誠実なものなのである、我々は(俺もかよ)。

【大山町の探索】
そこまではいいのだが、そういうわけで私は機会があるごとに(といっても10年に1回とかその程度だが)板橋区の大山に出かけたり、調べたりしたものだった。それでまず驚いたのは、記憶の中の大山町の面影が全然なく、まったく別の町のように思われた。建物や景色だけでなく地形も地図も何ひとつ記憶と噛み合う部分がない。狐につままれた気分。もしかしたらまったく別の町を大山町だと間違えて記憶してたのかも知れない。大山駅から歩いたのは確かなのだが…? それはまぁさておいて、ともかく大山駅のある大山町の他に大山東町・大山西町・大山金井町が隣接しておりこれらを合わせた四つの町を広義の大山町(大山4町)とみても、調査に苦しむほどの広さはない。
しかしこの範囲にはめぼしい遺跡はない。
関東平野は長い間中央からみれば田舎で平安時代に武士が発生した頃からようやく開拓されたかのように思われがちだが、実は意外にも先史遺跡のひじょうに密集した地域なのである。旧石器時代や弥生時代も多いが、縄文時代と古墳時代がとくに充実して(縄文といえば東北地方が中心だが、こと縄文中期に限っていえば関東が中心だった)いて、住居遺構や貝塚はいうまでもなく、古墳が多いのも目につく。東京都が公開している遺跡地図をみると、ほぼ東京全土が遺跡の上にあるといっても過言ではない。
にもかかわらず、大山4町は、まるで遺跡と遺跡の間に落ちたように、遺跡地図に重ならないのである。大山4町から離れてしまえば、近隣にめぼしい遺跡はいくらでもあるのだが、逆に多すぎて特定できない。もっともメジャーな遺跡は、「茂呂山遺跡」といい、大山駅から二つめの上板橋駅から徒歩10分ほどのところにある。特に目立つのはこれだが、しかしこれだとあまりにも離れ過ぎである。大山町からはずれる場所ならば、最初からその地名でいえばいいのであって齋藤氏が「大山」にこだわった意味がない。
一度、これといった手がかりもないまま大山駅周辺を探索してみたものの、駅の近くの「子易神社」がおもしろかった他は、とくに何の収穫も得られなかった。「子易神社」は霊験もあらたかで由緒もあり、境内社の宗像神社は小さな祠でその泉は今でこそ汚い池だが往事はさも美しい水苑だったろうと思わせる風格がある。

【謎の解明】
結局なにもわからず仕舞い。それなら事のついで、近くなことだし、有名な「茂呂山遺跡」(上述)でも見ておくか、というわけで「茂呂山遺跡」の地図を詳細にみると、あにはからんや、「大山高校」の隣ではないか???
ここは大山町ではない。小茂根5丁目というところで同じ板橋区内とはいえ大山4町とはだいぶ離れている。
しかし、誰でも瞬時にはっきりと確信するだろう、つまり、齋藤氏のいっていた「大山」というのは「大山高校の隣」だったために、あのへんが大山という地名なのだと誤認していたに違いないということを。
だがなぜ大山でないところに大山高校があるのか? 大山高校に直接電話して確かめたところによると、そもそも大山高校はかつて夜間高校で今の栄町にあった。栄町は大山町と大山東町に隣接するものの、大山4町とは別の町である。しかし夜間高校ということで通学の便宜から最寄駅の名をとって「大山高校」と名付けられた。後に全日制となって現在の地に移転してからも、伝統ある学校名を継承維持してきたという。

【茂呂山遺跡】
茂呂山遺跡をみることができるのは三つの側面で道を挟んで大山高校側、それと石神井川に接する側、大山高校の反対側。どれも金網の柵が巡らされて入れず見え具合は一長一短で少々じれったいが石碑や表示板は立っている。他の側面は民家や建設会社の敷地に阻まれてみえない。面積としてはきわめて狭小というしかないが住宅街の中ではこうなってしまったのもやむをえない。古くは大山高校の敷地や石神井川を挟んで北に位置する城北中央公園なども含む広大な地域が「茂呂山」(もろやま)と称したという。
現在の茂呂山遺跡は広義の茂呂山の中心部で、かつての住民はここ(広義の茂呂山の中心)を茂呂山ではなく「オセド山」と呼んでいた。みた感じ地面が盛り上がって高くなってるだけで、一面ただの雑木林である。
日本考古学上、きわめて重要な遺跡であり、これに匹敵するものは群馬県の岩宿遺跡しかない。どちらも縄文時代以前の、旧石器時代の遺跡である。

【セド】
ところでこの「オセド山」という名が気になる。
オセドというのは原型は「セド」で、地名や姓として全国に存在する。
セドまたはセトと読む場合には「脊戸・背斗・勢戸・瀬戸・瀬斗・門廻・世登」などと書き、セドウまたはセトウと読む場合には「背洞・瀬洞・瀬東・瀬道・瀬藤・世道・勢頭」などと書く。語頭に「御・尾・小」などがついて「オセド」「オセドウ」などとなっている場合も多く、さらに「御伊勢堂」と訛って神明宮(伊勢神宮の分社)が祀られるに至り、語源と由来が逆転しているケースもある(神明宮を祀ったのが先でそこから「御伊勢堂」という地名が起こったという解説を稀にみかけるが誤り)。姓としての「門廻」(せど)氏は金沢市周辺にあり全国でも数世帯しかない珍姓。
このセドなるものは、一般的な説でいわれるのは「背(すなわち後ろ)の戸」の意味で、第一に裏口や勝手口の意。第二に家の裏庭または裏手の土地(裏口から出た所だから)。第三に裏庭や家の裏手にある「井戸」。実際にこれらの意味で使われていることもあるが、それだけではない何かがありそう。
これらの地名には考古学と縁がある。青森県五所川原市のオセドウ貝塚遺跡から人骨が発見されており、これが長腿彦の骨じゃねぇべかってんで一部のへんな業界(『東日流外三郡誌』関係業界)の人々の間で有名だが、そんなヨタ話はさておいても、全国の「セド系」の地名には人骨が発掘されたり貝塚や古墳だったりする例が多い(ちなみに貝塚をゴミ捨て場と思ってる人がいるがとんでもない間違いで、食べ物となった生き物の霊=幸(さち)を与えてくれた神霊の祭祀場である。アイヌの熊を祀るごとし)。
貴人の葬儀を行なってそのまま墓地にするような所ならば、「去り所(さりど)」というような意味だったのではないか。いずれにしろ、セドというのは意味や語源の辿れない太古の言葉の残存で、なんらかの聖地だった所のように思える。

【結】
すったもんだで今回は「考古学の見学」ではなくてほとんど「霊視・霊査の旅」だったわけだがw
脱線はこのぐらいにしてしてそろそろ本題に入ろう。「ヨセフの塚」をめぐるあれこれのおもしろい話はいろいろあるのだが、今回は省略。もし神奈川県の阿夫利神社のある大山の麓を散策する機会があれば、その時に改めて詳しく問題にしたい。