「皇室と日本を考える」は、活動内容、及び趣旨や路線の変更などについて、H21/07/22以降ながらく模索中・相談中でしたが、H21/09/18よりリニューアル再スタートしました。
------
【注意】このブログは活動記録のページです。
最新のお知らせは皇室と日本を考えるhttp://nhlar.blogspot.com/をご覧ください。
----
[オフ会情報メーリングリスト]があります。詳細は⇒こちら
----
「皇室と日本を考える」は、おもに右寄りな人たちのオフ会で、展示会を見学にいったり、遠足を兼ねて見学会をやったり、会議室を借りたり喫茶店で会合したりして学習会(自主講座)をやったり、飲んだり遊んだり、いろいろしてる面白く楽しい人たちの集まりです(研究・学習もちゃんとやってますが)。特定の政治系あるいは宗教系の団体や組織とは特別の関係はなく、会費の徴収や募金のお願いもしたことはありません(h21年度から会議室の使用料のみ一人500円以内で頂く場合があります。無料の場合も多いですがその場合もスタッフの自腹なのでカンパは歓迎します)。
もともとは皇室典範改正問題や皇位継承問題を発端としてスタートした、保守系市民による自主講座で、男系護持をめざす文化運動でしたが、当時から現在まで、特定の団体や組織には縛られず、一般参加者からスタッフまでの、すべてがあくまで各自の自由な参加による個人のネットワークであることに一貫して基礎をおいています。
これまでは、常連さんか一見さんかの区別なく、参加者(希望者)の自主的な発議によって企画をみんなで相談するという体制をとってきました(詳細は下記の第一期〜第三期の活動)が、根回しや段取りが、甚だしく面倒で担当者が疲弊してしまうため、現在では、オフ会の企画ごとに、団体としての公式な主催活動ではなく、発起者の個人責任による個人主催という形になっています。または関係者の私的なオフの催しをストレートに告知しています(ただし意見や希望などの募集は継続中です。こちら)。様々なオフ会、イベント企画の多彩なところは何ら変わってはいませんので、いまだ出会っていない皆さんと、少しでも知り合いの輪が広がればと考えている次第です。(現在の情報についてはこのブログでは扱いません。こちら→「皇室と日本を考えるhttp://nhlar.blogspot.com/」をどうぞ)
(※オフ会情報についてはメーリングリストも開設しており、個々のイベント・オフ会などの情報についてはネット上の公開情報よりメーリングリストが詳細です)
■過去の活動について■
第一期は、皇紀2666年(h18)6月から翌年5月までの1年間、毎月一回の学習会を催すという計画のもと、祖先が守り続けた日本精神文化の尊さ、戦後の学校では教えられない日本の國體、とくに神話の世界や皇統の歴史、及びそれらに関連する諸テーマを12回に渡って扱ってきました。また、著名な文化人・言論人・専門の知識人による大規模な講演会などは世上に多いのですが、当会ではそうではなく、毎回ナビ役(レポ役)を立てながらも普通の一般人(参加者)が知識をもちよって、自由に議論・学習していく相互学習会を理想としてきました。全十二回。
→第一期の活動記録
第二期は、不定期ながらも皇紀2667年(h19)6月から同年12月23日の最終回までの予定で、第一期で一、二度試みられて好評だった各種の見学会や遠足をやってきました。また、後半では毎回のオリジナルテーマとは別に、神社参拝を取り入れることと、和歌になじみ学ぶことの二点をたびたび試みました。全八回。
→第二期の活動記録
第三期は、皇紀2668年(h20)1月5日から、同じく不定期開催で、開催時期についての年間予定というものはとくに立てず、最終回をいつにするかも決めず、参加者の希望に応じて、より一層自由な活動を目指し、他団体との合同開催企画や面会同席を伴わない形式のイベント等、新しい試みもなされました。見学会や遠足系のものは中身がたいへん濃くて味わいあるものが多く、講演や学習会系のものは思想的に広大で深淵なものが多く、第三期は全体的にマニアックあるいはディープな印象となりました。皇紀2668年(h20)3月1日のイベントの内容がたまたま総集編的・総括的なものとなりましたのでこれで第三期の最終回としました。全七回。
→第三期の活動記録
■おまけ企画について■
「おまけ企画」は、不定期開催で「オプション企画」ともいい、07年05月のイベントの際に手違いから偶発的に始まったもので、「古事記」その他の古典の購読をやったり、当会で開催している毎回のテーマを予習復習的に掘り下げたり、表立ってやるのは相応しくないディープな問題や、裏ネタなどを取り扱っているミニ研究会で、現在も忘れた頃に時々突発的に催しています。
→おまけ企画の活動記録
これらのアーカイブは当時のイベント開催をお知らせした告知文と簡単なイベントレポートから成っていますが、毎回のテーマはひとつひとつが幅広く奥深いものですので、本来ならば詳細な解説論文を付した長大な完全版にすべきところですが、スタッフの多忙と怠慢と人手不足のため、残念ながら現状ではウェブ上では簡単な概略しかお伝えできない情況です。
【注意】最新のお知らせは皇室と日本を考えるhttp://nhlar.blogspot.com/をご覧ください。
「皇室と日本を考える」
代表/
たかし
開催実行委員長/
孤高の相場師
スタッフ/
鹿爪
Frida
★しゅん♪
むらさぎ
2009年9月14日月曜日
2009年8月26日水曜日
最近(H21/08/18以降)の活動履歴(随時更新中)
(各項の詳細はそれぞれのリンク先を参照)
八月期(08/18-09/13)
08/22(土)アニメ特撮文化史から考察する戦後史の正体[サブカル論1]〜横浜開港150年便乗企画・サブカルでみたモダニズムの読み直しから横浜市長がヤクザに命を狙われている件まで〜○
08/23(日)麻布十番納涼まつり△
(※15:00〜、各自連絡とりつつ好きな時間に三々五々合流。大混雑を避けるため17:00には移動、ただの飲み会に移行)
08/24(月)『日本の教育が危ない!』緊急國民集会〜あなたは日教組教育を選びますか?〜◎
08/26(水)サブカルチャーとしての憑依型新宗教から日本的霊性を考察する[サブカル論2]〜アニメ特撮史における文化の切断面から幸福実現党がCIAから金をもらっている件まで〜◇
08/27(木)赤塚不二夫追悼展△
(※銀座松屋。15時半、現地集合。イベント自体は8/26から9/7まで開催中)
08/29(土)
昼・「伊勢神宮と神々の美術」見学会△
(※13時、上野駅公園口で集合。無料券10枚あり。イベント自体は9/6まで開催)
夜・池袋駅麻生応援&党首対決ヲチ&飲み会オフ(※19時半)
08/30(日)選挙オフ(開催場所が2ヶ所にわかれております。どっちも夕方より)
A会場:緊急Teach-in「高級美味枝豆と豪華アワビで開票を眺める夕べ」in赤羽橋
(※すでに定員満杯に近づいているのと保守派への辛辣な暴言が出まくる予定なので右寄りの方はB会場がお勧めです。定員に達した場合は参加不可)
B会場:「インターナショナル進歩政治青年研究会」in西池袋の西形ビル
(※左巻きの狂宴。うちの開催実行委員長によればうちのMLに入っている方は行ってもいいみたいです。レベルの高い(?)社会主義者の集まりなので憂さ晴らしに乱入でもして実りある論争を繰り広げて下さい。詳しくは「孤高の相場師」まで)
09/06(日)秋の遠足1「稲荷山古墳見学会」〜左翼学説を斬り伏せた金文字の剣と"田中卓の闇"〜
09/12(土)甲子雅代のイスラム講話○(※16時〜18時「かながわ労働プラザ」石川町駅3分)
(※講師病欠により急遽岡田明憲師の代講「選挙後の日本を占う」に変更されました)
九月期(09/14-09/27)
09/16(水)古事記に親しむ会△(※19:00?20:30、浅草橋区民館。参加申し込み締切期限日は9/14)
(9/14までに申し込み。問い合わせ先&申し込み先03-3866-4387佐久間)
09/17(木)「グリム童話集原画展」観賞
(※16:00~、教文館6F。イベント自体は9/30まで開催中)
09/18(金)皇室と日本を考えるリニューアルスタート記念飲み会
オクトーバーフェスト秋の収穫祭2009
(※17時?22時、日比谷公園噴水広場)
09/19(土)宮中歌会始(お題:光)に向けて和歌を詠む会
(※13時、明治神宮で待ち合わせ。ほか詳細はリンク先のmixi)
09/20(日)サンマ祭1・目黒SUNまつり△
09/26(土)チベット・ウイグル・モンゴル三民族連帯集会&デモ△
(※当ブログ管理人の参加は遅れて後半のみ参加)
09/27(日)サンマ祭2・東京タワーさんままつり△
十月期(09/28-10/24)
09/28(月)トークライブ 「ああ言えば、こうゆう」△
10/04(日)秋の遠足2・江ノ島龍口寺と片瀬諏訪神社を訪ねて〜仏教カルト(偽経法華経と狂僧日蓮)の研究~
10/12(祝)講座「映像で見る近代皇族の暮らし」・展示「近代皇族の記憶」△
10/17(土)
秩父・神道国際学会「神道の立場から世界の環境を問う」△
(※事前に申し込み必要、10/5締切。参加費は無料)
池尻・日本の誇りセミナー「佐藤一斎 武士を育てた心の学問」△
(18:30~@世田谷区池尻地区会館、参加費2000円)
10/18(日)突発温泉オフ(@さやの湯処)
10/20(火)※講演「女王卑弥呼の国を探る3−纒向の出現と倭国連合の成立」(10/31開催)への申し込み締切期限日
十一月期(10/25-11/17)
10/25(日)天皇陛下御即位二十年奉祝神奈川県民の集い(さだまさし記念ライブ)△
(※無料、ただし要整理券。当会スタッフが整理券を確保してるので同行者は整理券不要ですが、ご自分で整理券を入手する際は神奈川県神社庁TEL:045-761-6387まで。※12時開場13時開始@パシフィコ横浜国立大ホール )
10/27(火)中近東・アフリカ諸国大使館出展バザー△
10/28(水)《むらさぎ特別講義》神道以前の神道と原初の神秘◇
10/31(土)(※どちらでも関心のある方にご参加ください)
大手町・女王卑弥呼の国を探る3−「纒向」の出現と倭国連合の成立△(※事前に申し込み必要、10/20締切)
品川・天皇・皇后両陛下奉迎△(※朝10時集合・東京海洋大学品川キャンパス正門前)
11/01(日)神保町ブックフェスティバル
11/07(土)素読の会
11/12(木)天皇陛下御即位二十年をお祝いする国民祭典△
11/14(土)ほうれん草ともやしと豚肉の鍋でオフ会(※詳細は直接にお問い合わせ下さい)
十二月期(11/18-)は現在進行中です
☆印は「皇統の未来を守るオフ」主催
◎印は「伝承文化研究所」主催
◇印は「古伝承研究会」「マズダヤスナの会」共催
△印は既存の一般公開イベントへの参加を部分的に組み込んだ企画
※これ以前の活動記録は ⇒こちら
八月期(08/18-09/13)
08/22(土)アニメ特撮文化史から考察する戦後史の正体[サブカル論1]〜横浜開港150年便乗企画・サブカルでみたモダニズムの読み直しから横浜市長がヤクザに命を狙われている件まで〜○
08/23(日)麻布十番納涼まつり△
(※15:00〜、各自連絡とりつつ好きな時間に三々五々合流。大混雑を避けるため17:00には移動、ただの飲み会に移行)
08/24(月)『日本の教育が危ない!』緊急國民集会〜あなたは日教組教育を選びますか?〜◎
08/26(水)サブカルチャーとしての憑依型新宗教から日本的霊性を考察する[サブカル論2]〜アニメ特撮史における文化の切断面から幸福実現党がCIAから金をもらっている件まで〜◇
08/27(木)赤塚不二夫追悼展△
(※銀座松屋。15時半、現地集合。イベント自体は8/26から9/7まで開催中)
08/29(土)
昼・「伊勢神宮と神々の美術」見学会△
(※13時、上野駅公園口で集合。無料券10枚あり。イベント自体は9/6まで開催)
夜・池袋駅麻生応援&党首対決ヲチ&飲み会オフ(※19時半)
08/30(日)選挙オフ(開催場所が2ヶ所にわかれております。どっちも夕方より)
A会場:緊急Teach-in「高級美味枝豆と豪華アワビで開票を眺める夕べ」in赤羽橋
(※すでに定員満杯に近づいているのと保守派への辛辣な暴言が出まくる予定なので右寄りの方はB会場がお勧めです。定員に達した場合は参加不可)
B会場:「インターナショナル進歩政治青年研究会」in西池袋の西形ビル
(※左巻きの狂宴。うちの開催実行委員長によればうちのMLに入っている方は行ってもいいみたいです。レベルの高い(?)社会主義者の集まりなので憂さ晴らしに乱入でもして実りある論争を繰り広げて下さい。詳しくは「孤高の相場師」まで)
09/06(日)秋の遠足1「稲荷山古墳見学会」〜左翼学説を斬り伏せた金文字の剣と"田中卓の闇"〜
09/12(土)甲子雅代のイスラム講話○(※16時〜18時「かながわ労働プラザ」石川町駅3分)
(※講師病欠により急遽岡田明憲師の代講「選挙後の日本を占う」に変更されました)
九月期(09/14-09/27)
09/16(水)古事記に親しむ会△(※19:00?20:30、浅草橋区民館。参加申し込み締切期限日は9/14)
(9/14までに申し込み。問い合わせ先&申し込み先03-3866-4387佐久間)
09/17(木)「グリム童話集原画展」観賞
(※16:00~、教文館6F。イベント自体は9/30まで開催中)
09/18(金)皇室と日本を考えるリニューアルスタート記念飲み会
オクトーバーフェスト秋の収穫祭2009
(※17時?22時、日比谷公園噴水広場)
09/19(土)宮中歌会始(お題:光)に向けて和歌を詠む会
(※13時、明治神宮で待ち合わせ。ほか詳細はリンク先のmixi)
09/20(日)サンマ祭1・目黒SUNまつり△
09/26(土)チベット・ウイグル・モンゴル三民族連帯集会&デモ△
(※当ブログ管理人の参加は遅れて後半のみ参加)
09/27(日)サンマ祭2・東京タワーさんままつり△
十月期(09/28-10/24)
09/28(月)トークライブ 「ああ言えば、こうゆう」△
10/04(日)秋の遠足2・江ノ島龍口寺と片瀬諏訪神社を訪ねて〜仏教カルト(偽経法華経と狂僧日蓮)の研究~
10/12(祝)講座「映像で見る近代皇族の暮らし」・展示「近代皇族の記憶」△
10/17(土)
秩父・神道国際学会「神道の立場から世界の環境を問う」△
(※事前に申し込み必要、10/5締切。参加費は無料)
池尻・日本の誇りセミナー「佐藤一斎 武士を育てた心の学問」△
(18:30~@世田谷区池尻地区会館、参加費2000円)
10/18(日)突発温泉オフ(@さやの湯処)
10/20(火)※講演「女王卑弥呼の国を探る3−纒向の出現と倭国連合の成立」(10/31開催)への申し込み締切期限日
十一月期(10/25-11/17)
10/25(日)天皇陛下御即位二十年奉祝神奈川県民の集い(さだまさし記念ライブ)△
(※無料、ただし要整理券。当会スタッフが整理券を確保してるので同行者は整理券不要ですが、ご自分で整理券を入手する際は神奈川県神社庁TEL:045-761-6387まで。※12時開場13時開始@パシフィコ横浜国立大ホール )
10/27(火)中近東・アフリカ諸国大使館出展バザー△
10/28(水)《むらさぎ特別講義》神道以前の神道と原初の神秘◇
10/31(土)(※どちらでも関心のある方にご参加ください)
大手町・女王卑弥呼の国を探る3−「纒向」の出現と倭国連合の成立△(※事前に申し込み必要、10/20締切)
品川・天皇・皇后両陛下奉迎△(※朝10時集合・東京海洋大学品川キャンパス正門前)
11/01(日)神保町ブックフェスティバル
11/07(土)素読の会
11/12(木)天皇陛下御即位二十年をお祝いする国民祭典△
11/14(土)ほうれん草ともやしと豚肉の鍋でオフ会(※詳細は直接にお問い合わせ下さい)
十二月期(11/18-)は現在進行中です
☆印は「皇統の未来を守るオフ」主催
◎印は「伝承文化研究所」主催
◇印は「古伝承研究会」「マズダヤスナの会」共催
△印は既存の一般公開イベントへの参加を部分的に組み込んだ企画
※これ以前の活動記録は ⇒こちら
2009年8月18日火曜日
09/06(日)秋の遠足1「稲荷山古墳見学会」〜左翼学説を斬り伏せた金文字の剣と"田中卓の闇"〜9/4更新
【序】悠仁親王誕生と皇位継承問題
30年前の9月、日本の古代史が(というより学界が)激震に見舞われた世紀の大発見がありました。それにより左翼学説の権威が地に墜ち、この時から日本の保守回帰が静かに、しかし力強く始まったのです。みんな忘れてるけど(生まれてなかった人ももう多いだろうし)。あれは天佑であり神風でした。日本の保守系世論の復興なくして、70年代さながらの左翼的空気が国民感情を覆っていたならば、こんにち皇位継承問題における男系保持の世論がここまで力を持つことはありえたでしょうか。
くしくも当日の9月6日は、悠仁親王満3歳の誕生日でもあります。皇位継承問題=いわゆる男系女系論争では、「女系」派の巨頭である田中卓は、かつては稲荷山鉄剣に刻まれた最古の「男系」系図の解釈から記紀の古伝承の事実性を論証した人物でありました。
記紀を歪曲しようとする左翼学説との激闘史を学び、皇国史観=万世一系の正しさを知っている現代のウヨならば、歴史が武器として顕現したかのような奇跡の剣に刻まれた輝く金文字に、深い感動を禁じ得ないことでしょう。
【1】その歴史的背景
70年代までの日本は左翼全盛期だったが、平成時代以降は右傾化(正常化?)して現在に至っているのは周知の通り。(この認識の段階で話が噛み合ない人とは致命的に会話が成り立たない)。この変化はいうまでもなく突然移行したわけではなく、その両時代の間に、80年代の「価値相対」時代があった。80年代といえば、いろいろ否定的な評価をいくらでもいいたい人もいるだろうが、とりあえず絢爛たるサブカル文化の黄金時代であり、その圧倒的な豪奢な光を背負った若者たちが、空疎な説教をふりまき鬱陶しい抑圧を繰り返してきたおっさんたちの貧乏くさい左翼気分を嘲笑し去ったことは事実である。これは全共闘への皮肉として70年安保ならぬ80年安保とも言われた通り、世代間抗争であり復讐であった。80年代の価値相対時代なくして、平成の保守回帰はありえたであろうか。80年代といえば、いろいろ批判・非難をしたい人もいるだろうが、平成の右傾化を用意したのもまた紛れもなく80年代だったのである。
さてその80年代という一つの時代は、実は昭和53(1978)年から始まったというのが、以前からの私の説である。その年には、年表でみると、その時期に十代を過ごした者にとっては、単に懐かしいだけではなくサブカル全盛期の開始にふさわしい彩り豊かで華やかな思い出がならんでいるからだ。
その年はまた、日本古代史にとっても、大きな区切りの年だった。いうまでもなく「稲荷山鉄剣」の金象眼(金象嵌)の115文字の発見である。
それ以前、70年代までの日本の古代史学界は世間の左翼風潮のまま、古事記や日本書紀の古伝承を天皇家が自分らの権力を正当化するため好き勝手に捏造したものであり史料的な価値はないとして、記紀の諸系図に現われる殆どの人間を「伝承上の存在」「実在しない架空の人物」とみなし、天皇架空説・王朝交代説・征服王朝説など、万世一系を否定する妄説を、アカデミズムの権威の下で堂々と唱えてきた。
この115文字が出現のニュースは、毎日新聞が9月19日の夕刊で他社をだしぬいて大スクープをものにしてから、大手新聞社や大マスコミのことごとくが、あるいは一面トップ、あるいは見開き左右両面ぶちぬき、あるいはタイトル三段ぬきで後追いながらも連日の報道。解説やコメントに古代史学者が総動員されたが、何も知らない一般人は、ただ諸説入り乱れてるんだなぁぐらいの認識がせいぜいだったかも知れない。しかし、この発見は、古代史業界にとっては、大東亜戦争の敗戦による断絶よりも大きな、喩えていえば明治維新に匹敵するような大事件だった。ある程度の研究史を知り、学界の空気を知っていれば、名だたる大御所たちの頓珍漢なコメントやあわてふためいて自説崩壊を糊塗する醜態に苦笑せざるを得ないものだったし、左傾学説にうんざりしていた者にしてみれば、今でいう「ワクテカ」、「飯ウマ」状態だったことが忘れられない。
またこの期間、毎日新聞は『雄略天皇の名解読』、『わしは雄略帝の片腕だった』、『オホビコは四道将軍の「大彦命」崇神天皇が派遣』と、当時すでに皇學館教授だった田中卓の説を好意的に紹介した。また翌年、田中卓は一般人向けに『古代天皇の秘密』(太陽企画出版)を著わし、それまで(今でも?)定説とされる左傾的、反天皇的な諸学説を、一つ一つ丁寧に解きほぐしてみせたが、鉄面皮な団塊世代に対しては、今ひとつ手応えがなかったように当時は感じられたかも知れない。
学者たちは、しばらくは何も変わってないような、とりすました顔をしていたが、しかし今思えば、あの時、アカデミズムの権威は完全に失墜したのだと確信をもって断言できる。それまでは、学者様はえらいという思い込みがなんだかんだ言っても支配的であった。だが明らかに学界の空気は一変した。学界では、王朝交代説や征服王朝説は、学界では腫れ物にさわるように否定も肯定もしないで棚上げされるようになり、学者ではないライターの手になるマニア向けの通俗古代史本の中で、煽り文体ばかりが仰々しい古代史の「謎」としてしか読まれなくなった。鉄剣によって、80年代はアカデミズムの権威すらも相対化された時代なのである。
あれから十年、平成になって右傾化の時代とインターネットの時代が同時にきた。電脳空間でも古代史趣味の庶民のヨタ話は相変わらず花盛りであった。今でも2chやmixiでは、昔ながらの左傾史観に毒された古代史謎解きごっこが跡を絶たないが、それは通俗古代史本のライターが団塊世代だったこと、それら駄本がしばらくは(いや、今も)流通していたことで、下の世代も影響を受けたせいである。しかし、かつてと異なるのは、記紀の古伝承に準拠した古代史像を信奉する正しい国民意識をもった若者が、昔では考えられないほど増殖したことである。2chの最盛期、歴史板には学界の通説を左翼的歪曲としてこきおろしつつ完膚無きまでに論破する痛快な「名無し」が続出していた。彼らは名もなき顔の見えない同志だった。妙に学界の内部に通じていた者もいたので、もしかしたら、中には老害教授に抑圧され世を儚む万年講師やペーパードクターもいたのだろう。その頃には少なくともネット上では単なる左翼的反天皇学説ではなく、朝鮮民族史学(俗にいうウリナラ史観)にとってかわられていた。これは反日的な古代史学説(?)の新たなネタ元になり、「非学問的な意味」で、いまだ重大かつ微妙な局面にあり、解決の見通しが立っていないが、事の顛末など詳細は別の機会に譲る。
それからまた十年。平成10年代、皇位継承問題が勃発し、男系護持派と女系容認派の論争が、少なくとも保守派の内部では前者の勝利に落ち着くかとみえた平成18(2006)年2月16日発売の『諸君!』三月号で、久々に一般人の前に現われた田中卓は、女系容認論を展開した。かつての俊英とは殆ど別人のように稚拙なその議論は、明らかに男系派から不満と反発で迎えられ、それに対する再反論は今でもネット上で多く読むことができる。とはいえ、左翼全盛期の嵐の下、伊勢の皇學館で、ひたすら地道に研究を重ね、アンチ左翼・保守系の古代史学者としては最大の大物であるのみならず戦前からの伝統を引く皇國史観の守護者のように思われてきた田中卓の態度表明はそれなりに大きな衝撃を与え、男系論優位の流れに大いに水をさした。鳴りを潜めかけた高森明勅を調子付かせ、いつまでも態度を明確にせずはぐらかし続けていた小林よしのりが後に『天皇論』で女系派宣言をすることになる導火線ともなった。しかし、田中卓の女系容認論は、独自の新しい論点で女系論を一新させたわけでも強化したわけでもない。なにひとつも目新しいことをいっていない。すでに議論し尽くされたことを蒸し返しただけだった。この戦術は女系派に一般的にありがちな傾向で、小林よしのりも(無知を装ってか本当に勉強不足でか)『天皇論』でやっている。もし、田中卓が、老人性痴呆症でないのならば、これは「時間かせぎ」であって、「何か」を待っているのである、と推測するほかない。
【2】金文字が証した記紀の系譜
(この章は当日に口頭で解説・議論)
【3】田中卓の限界と問題点
もっとも当時から私は田中卓を全面的に信奉していたわけではない。(以下かきかけ)
-------
※このイベントの告知はこちら↓
http://nhlar.blogspot.com/2009/08/80818-0819.html
30年前の9月、日本の古代史が(というより学界が)激震に見舞われた世紀の大発見がありました。それにより左翼学説の権威が地に墜ち、この時から日本の保守回帰が静かに、しかし力強く始まったのです。みんな忘れてるけど(生まれてなかった人ももう多いだろうし)。あれは天佑であり神風でした。日本の保守系世論の復興なくして、70年代さながらの左翼的空気が国民感情を覆っていたならば、こんにち皇位継承問題における男系保持の世論がここまで力を持つことはありえたでしょうか。
くしくも当日の9月6日は、悠仁親王満3歳の誕生日でもあります。皇位継承問題=いわゆる男系女系論争では、「女系」派の巨頭である田中卓は、かつては稲荷山鉄剣に刻まれた最古の「男系」系図の解釈から記紀の古伝承の事実性を論証した人物でありました。
記紀を歪曲しようとする左翼学説との激闘史を学び、皇国史観=万世一系の正しさを知っている現代のウヨならば、歴史が武器として顕現したかのような奇跡の剣に刻まれた輝く金文字に、深い感動を禁じ得ないことでしょう。
【1】その歴史的背景
70年代までの日本は左翼全盛期だったが、平成時代以降は右傾化(正常化?)して現在に至っているのは周知の通り。(この認識の段階で話が噛み合ない人とは致命的に会話が成り立たない)。この変化はいうまでもなく突然移行したわけではなく、その両時代の間に、80年代の「価値相対」時代があった。80年代といえば、いろいろ否定的な評価をいくらでもいいたい人もいるだろうが、とりあえず絢爛たるサブカル文化の黄金時代であり、その圧倒的な豪奢な光を背負った若者たちが、空疎な説教をふりまき鬱陶しい抑圧を繰り返してきたおっさんたちの貧乏くさい左翼気分を嘲笑し去ったことは事実である。これは全共闘への皮肉として70年安保ならぬ80年安保とも言われた通り、世代間抗争であり復讐であった。80年代の価値相対時代なくして、平成の保守回帰はありえたであろうか。80年代といえば、いろいろ批判・非難をしたい人もいるだろうが、平成の右傾化を用意したのもまた紛れもなく80年代だったのである。
さてその80年代という一つの時代は、実は昭和53(1978)年から始まったというのが、以前からの私の説である。その年には、年表でみると、その時期に十代を過ごした者にとっては、単に懐かしいだけではなくサブカル全盛期の開始にふさわしい彩り豊かで華やかな思い出がならんでいるからだ。
その年はまた、日本古代史にとっても、大きな区切りの年だった。いうまでもなく「稲荷山鉄剣」の金象眼(金象嵌)の115文字の発見である。
それ以前、70年代までの日本の古代史学界は世間の左翼風潮のまま、古事記や日本書紀の古伝承を天皇家が自分らの権力を正当化するため好き勝手に捏造したものであり史料的な価値はないとして、記紀の諸系図に現われる殆どの人間を「伝承上の存在」「実在しない架空の人物」とみなし、天皇架空説・王朝交代説・征服王朝説など、万世一系を否定する妄説を、アカデミズムの権威の下で堂々と唱えてきた。
この115文字が出現のニュースは、毎日新聞が9月19日の夕刊で他社をだしぬいて大スクープをものにしてから、大手新聞社や大マスコミのことごとくが、あるいは一面トップ、あるいは見開き左右両面ぶちぬき、あるいはタイトル三段ぬきで後追いながらも連日の報道。解説やコメントに古代史学者が総動員されたが、何も知らない一般人は、ただ諸説入り乱れてるんだなぁぐらいの認識がせいぜいだったかも知れない。しかし、この発見は、古代史業界にとっては、大東亜戦争の敗戦による断絶よりも大きな、喩えていえば明治維新に匹敵するような大事件だった。ある程度の研究史を知り、学界の空気を知っていれば、名だたる大御所たちの頓珍漢なコメントやあわてふためいて自説崩壊を糊塗する醜態に苦笑せざるを得ないものだったし、左傾学説にうんざりしていた者にしてみれば、今でいう「ワクテカ」、「飯ウマ」状態だったことが忘れられない。
またこの期間、毎日新聞は『雄略天皇の名解読』、『わしは雄略帝の片腕だった』、『オホビコは四道将軍の「大彦命」崇神天皇が派遣』と、当時すでに皇學館教授だった田中卓の説を好意的に紹介した。また翌年、田中卓は一般人向けに『古代天皇の秘密』(太陽企画出版)を著わし、それまで(今でも?)定説とされる左傾的、反天皇的な諸学説を、一つ一つ丁寧に解きほぐしてみせたが、鉄面皮な団塊世代に対しては、今ひとつ手応えがなかったように当時は感じられたかも知れない。
学者たちは、しばらくは何も変わってないような、とりすました顔をしていたが、しかし今思えば、あの時、アカデミズムの権威は完全に失墜したのだと確信をもって断言できる。それまでは、学者様はえらいという思い込みがなんだかんだ言っても支配的であった。だが明らかに学界の空気は一変した。学界では、王朝交代説や征服王朝説は、学界では腫れ物にさわるように否定も肯定もしないで棚上げされるようになり、学者ではないライターの手になるマニア向けの通俗古代史本の中で、煽り文体ばかりが仰々しい古代史の「謎」としてしか読まれなくなった。鉄剣によって、80年代はアカデミズムの権威すらも相対化された時代なのである。
あれから十年、平成になって右傾化の時代とインターネットの時代が同時にきた。電脳空間でも古代史趣味の庶民のヨタ話は相変わらず花盛りであった。今でも2chやmixiでは、昔ながらの左傾史観に毒された古代史謎解きごっこが跡を絶たないが、それは通俗古代史本のライターが団塊世代だったこと、それら駄本がしばらくは(いや、今も)流通していたことで、下の世代も影響を受けたせいである。しかし、かつてと異なるのは、記紀の古伝承に準拠した古代史像を信奉する正しい国民意識をもった若者が、昔では考えられないほど増殖したことである。2chの最盛期、歴史板には学界の通説を左翼的歪曲としてこきおろしつつ完膚無きまでに論破する痛快な「名無し」が続出していた。彼らは名もなき顔の見えない同志だった。妙に学界の内部に通じていた者もいたので、もしかしたら、中には老害教授に抑圧され世を儚む万年講師やペーパードクターもいたのだろう。その頃には少なくともネット上では単なる左翼的反天皇学説ではなく、朝鮮民族史学(俗にいうウリナラ史観)にとってかわられていた。これは反日的な古代史学説(?)の新たなネタ元になり、「非学問的な意味」で、いまだ重大かつ微妙な局面にあり、解決の見通しが立っていないが、事の顛末など詳細は別の機会に譲る。
それからまた十年。平成10年代、皇位継承問題が勃発し、男系護持派と女系容認派の論争が、少なくとも保守派の内部では前者の勝利に落ち着くかとみえた平成18(2006)年2月16日発売の『諸君!』三月号で、久々に一般人の前に現われた田中卓は、女系容認論を展開した。かつての俊英とは殆ど別人のように稚拙なその議論は、明らかに男系派から不満と反発で迎えられ、それに対する再反論は今でもネット上で多く読むことができる。とはいえ、左翼全盛期の嵐の下、伊勢の皇學館で、ひたすら地道に研究を重ね、アンチ左翼・保守系の古代史学者としては最大の大物であるのみならず戦前からの伝統を引く皇國史観の守護者のように思われてきた田中卓の態度表明はそれなりに大きな衝撃を与え、男系論優位の流れに大いに水をさした。鳴りを潜めかけた高森明勅を調子付かせ、いつまでも態度を明確にせずはぐらかし続けていた小林よしのりが後に『天皇論』で女系派宣言をすることになる導火線ともなった。しかし、田中卓の女系容認論は、独自の新しい論点で女系論を一新させたわけでも強化したわけでもない。なにひとつも目新しいことをいっていない。すでに議論し尽くされたことを蒸し返しただけだった。この戦術は女系派に一般的にありがちな傾向で、小林よしのりも(無知を装ってか本当に勉強不足でか)『天皇論』でやっている。もし、田中卓が、老人性痴呆症でないのならば、これは「時間かせぎ」であって、「何か」を待っているのである、と推測するほかない。
【2】金文字が証した記紀の系譜
(この章は当日に口頭で解説・議論)
【3】田中卓の限界と問題点
もっとも当時から私は田中卓を全面的に信奉していたわけではない。(以下かきかけ)
-------
※このイベントの告知はこちら↓
http://nhlar.blogspot.com/2009/08/80818-0819.html
2009年7月2日木曜日
平成21年度季夏の活動履歴
(※各項の詳細はそれぞれのリンク先を参照)
八月期(07/22-08/17)
07/22(水)緊急Teach-in「日食とラーメン」in田町(19:30〜)
07/25(土)26(日)夏の遠足1「開国・開港Y150」見物△(※待ち合わせは適当。携帯で連絡とりあって各自好きな時間に現地合流、土日いずれの参加でも可)
08/01(土)土用丑の日にチェチェン料理を食べる会in芝公園(※この日に予定されていた「夏の遠足2・勝浦海岸オフ」は現地の天候不順により中止、当企画に変更になりました)
08/02(日)「国体と憲法(と憲法典)」研究会(※14:00靖国神社待ち合わせ)
08/08(土)素読の会(18:00-、銀座区民館)
08/15(土)靖国神社参拝オフ
08/16(日)インドネシアフェスタ△(※イベント自体は前日から2日間)
☆印は「皇統の未来を守るオフ」主催
◎印は「伝承文化研究所」主催
◇印は「古伝承研究会」「マズダヤスナの会」共催
△印は既存の一般公開イベントへの参加を部分的に組み込んだ企画
※これ以降の活動記録は ⇒こちら
※これ以前の活動記録は ⇒こちら
八月期(07/22-08/17)
07/22(水)緊急Teach-in「日食とラーメン」in田町(19:30〜)
07/25(土)26(日)夏の遠足1「開国・開港Y150」見物△(※待ち合わせは適当。携帯で連絡とりあって各自好きな時間に現地合流、土日いずれの参加でも可)
08/01(土)土用丑の日にチェチェン料理を食べる会in芝公園(※この日に予定されていた「夏の遠足2・勝浦海岸オフ」は現地の天候不順により中止、当企画に変更になりました)
08/02(日)「国体と憲法(と憲法典)」研究会(※14:00靖国神社待ち合わせ)
08/08(土)素読の会(18:00-、銀座区民館)
08/15(土)靖国神社参拝オフ
08/16(日)インドネシアフェスタ△(※イベント自体は前日から2日間)
☆印は「皇統の未来を守るオフ」主催
◎印は「伝承文化研究所」主催
◇印は「古伝承研究会」「マズダヤスナの会」共催
△印は既存の一般公開イベントへの参加を部分的に組み込んだ企画
※これ以降の活動記録は ⇒こちら
※これ以前の活動記録は ⇒こちら
2009年6月28日日曜日
2009年6月4日木曜日
07/18(土)「聖書考古学資料館」見学
このページは
http://nhlar.blogspot.com/2008/08/blog-post_3918.html
からの転載です(以下、改稿中)
--------
「聖書考古学資料館」の見学にいきます
http://www.tmba-museum.jp/
■待ち合わせ■
07/18(土)PM2:30からPM3:00までの間に
マクドナルド駿河台支店(JR御茶ノ水駅から明治大学方向です。地下鉄新御茶ノ水駅に通じるサンクレール支店ではないので注意)で待ち合わせ。
同じビルの2Fが聖書考古学資料館で1Fがマクドナルドです。
下記↓の掲示板を活用することも可能です。
「途中合流連絡用掲示板(携帯兼用)」
http://ip.tosp.co.jp/DG/TosDG100.asp?I=i9dai&P=0
http://nhlar.blogspot.com/2008/08/blog-post_3918.html
からの転載です(以下、改稿中)
--------
「聖書考古学資料館」の見学にいきます
http://www.tmba-museum.jp/
■待ち合わせ■
07/18(土)PM2:30からPM3:00までの間に
マクドナルド駿河台支店(JR御茶ノ水駅から明治大学方向です。地下鉄新御茶ノ水駅に通じるサンクレール支店ではないので注意)で待ち合わせ。
同じビルの2Fが聖書考古学資料館で1Fがマクドナルドです。
下記↓の掲示板を活用することも可能です。
「途中合流連絡用掲示板(携帯兼用)」
http://ip.tosp.co.jp/DG/TosDG100.asp?I=i9dai&P=0
2009年5月27日水曜日
半田稲荷神社神代文字和歌碑文解読
「半田稲荷」でgoogle検索すれば、江戸時代の享保から文化の頃、疱瘡や麻疹の病気封じと安産で大いに繁栄した神社であり、今よりかなり境内も広かったようです。「願人坊主(フリーの坊さんでいかがわしいとされていた連中)が真っ赤な服装で「葛西金町半田の稲荷、疱瘡もかるい、麻疹もかるい、運授・安産御守護の神よ」と面白おかしく歌って(歌詞はサイトにより多少違いあり)踊り歩いたのが関東全域はもとより京都大阪まで有名になり、歌舞伎にもなったとのこと。歌舞伎については最近も上演例があるようで。
神代文字の碑文はずいぶん古い時代に埋もれたらしいということしかわからない。
江戸時代後半だともう少しましな古典的な文語体で書くようになると思うのでそれよりは古いかも知れない。また半田稲荷が有名になった後に作られたなら、病気封じに関する内容になったのではないかな。
歌の前に「カミウタ」とあり、歌の後に「ア」とある。このアは吾郷清彦は「ウ」だというが所見ではケンペルマンの「ア」とする説で問題ない。「嗚呼」の意味だろう。もしくは「アア」、「アハレ」など続きがあったものが当時すでに碑文は割れて断片になっていたか。
初句は「かみはゆく」。この「かみ」は年長者・上位者・主人・天皇などをもさしうるので、強いて神社の神とばかりも決められないが仮に「神」とすると、「神は往く」は「神が去った」の意味だとすると不幸を暗示しうる。が、どちらというと雪の語源が神の御幸(みゆき)であるように神の臨在をいっているのだろう(祭日での神輿の往来とか)。あるいは二句三句の解釈によっては「神速く」の訛りという線もありうるか? 年長者・上位者・主人・天皇などを「かみ」ということもあるので、あるいは未亡人が夫の死去に際して詠んだ歌かも知れず、あるいは誰かが天皇崩御の際(時代の変わり目)に人生を振り返った歌かも知れない。
二句三句が問題の未解明部分。P=ケンペルマンは「としきはとまね かねこなる」、吾郷清彦は「ひきこはひまひ かひやふる」と読んだが、この二つの旧説ではどちらも意味不明。
四句と五句が「真澄鏡(ますみのかがみ)面変(おもか)はりてや」(訳:鏡をみると(歳をとって)顔が変わったなぁ)。真澄鏡は定型的な言い回しで、この場合は神社の古式の鏡を念頭におきつつ(御神体とかでなく)鏡の映り具合をほめているだけで、訳文の上ではあれこれ言わず単に「鏡」とするのがいいと思う。
なので未解明の二句三句はその文中にあって歌としての文意がつながらねばならない。全体としては、何か目出たいことか不幸なことがあり、年月を感じるという意味の歌らしい。
二つの旧説の解読文はどちらも意味不明だが、文法を無視して強いて意味を想像すると、ある程度の意味を想定はできる。
ケンペルマン説の「としきはとまね かねこなる」は「年来は(年際? 年月は?)止まね、予事成る」だろうか。予事(かねごと)は予想されたことという意味の古語、「かねこ」は少々ムリがあるが「かねごと」の縮約語とすると、「年月の流れは止まない、予想された通りになった」の意味か。和歌として成り立たなくはないが、老化を嘆くだけの暗い歌で、神社の碑文としては少し陰鬱すぎないか?
何かもっと目出たいことを祈願したものと考えた方がありそうに思う。
吾郷説の「ひきこはひまひ かひやふる」はさらに解釈が困難。とはいえ吾郷は文字の音価を定め直そうとしただけなので文意は考えてないのは当然だが、そこをムリして解読を試みる。ひまごを「ひこ」ともいうので「曾孫たち」の意味で「ひここ」、または「曾孫である子」の意味で「ひここ」といったもの、その「ひここ」が訛って「ひきこ」? 「はひまひ」は「這ひ迷ひ」(這い回り逃げ惑う)、「祝ひ舞ひ」(お祝いに舞い踊る)とまったく逆の二つの解釈ができる。「かひやふる」はさらにわからない。彼火矢降る(あの火矢が降って来た)、甲斐や溢る(生きた甲斐が溢れるほどあった)、貝や炙る(貝を焼いている)、穀破る(脱穀する)、甲斐屋振る(甲州屋が繁盛してる)等、こじつけはできるが、どれもややムリヤリな感じ。曾孫が出てくる第二句は年月の流れを連想させる下の句とよくつながるのだが、全体的にスッキリ繋がらない、とくに第三句が酷い。
3行目の解読で1文字目と5文字めは一見してまったくちがう文字であるにもかかわらず、どちらもケンペルマンは「と」、吾郷は「ひ」と読んでる。7文字目と9文字目は同じ文字であり、ケンペルマンは「ね」、吾郷は「ひ」と読んでる。5文字目と7・9文字目はまったく違う文字であり、すべて「ひ」と読む吾郷説はいただけない。「ひ」「と」「ね」の3文字を比べると、すべてぐにゃぐにゃの線で区別がつかないように思うかも知れないが、いくつかの書体例から草書に崩れる前の原形を推定すると、案外にシンプルな「決め手」がそれぞれ決まっているのが判明する場合がある。「ね」は上の横棒の右端から下に線が下がった形(「フ」の「ノ」が真っすぐになった形)であり、「と」は「ヘ」のような平らに近い形である。「ひ」は平らににゅろにょろな文字だが決め手がわからない。
5文字目は「ひ」よりもはっきり「と」に似ているのでケンペルマンの説に従いたいが、7・9文字目は「ね」ではない。「ひ」は輪を上に結ぶ文字でもしその向きが決め手ならこの下側に結ぶ文字は「ひ」ではなくなるが、最後の左端から下方内側へ向かう撥ねが決め手ならば「ひ」に近いように思うので吾郷説を採る。問題の1文字目は「ひ」でも「と」でも「ね」でもなく、悩むところだが「ふ」だろうな。「ふ」も「ひ」と同じく、ただ横ににょろにょろしてるだけの文字だが「m」のように山二つの高さが揃うのが決め手らしい。
吾郷は2文字目を「き」、3文字目を「こ」とするが、ケンペルマンは3文字目を「き」、10文字目を「こ」とする。ケンペルマンは2文字目を「し」、吾郷は10文字目を「や」とする。「し」「き」「こ」「や」はどれも「フ」をぐにゃぐにゃに書いたように見えるが、全体的に「こ」は「く」の逆向き、「し」は「Z」、「き」は「7」のような印象になり、「や」は線の中程で右側に瘤のように張り出るのが決め手。
2文字目と10文字目はケンペルマン説でよいが、3文字目は「き」でも「こ」でもなく「や」だろうな。
11文字目はケンペルマンは「な」、吾郷は「ふ」とする。「な」の決め手は原形が「L」。
確かにこの書体では「ふ」の決め手も重合しているのだが、もし「ふ」だとすると、まったく違う文字にみえる1文字目に該当する文字がなくなってしまい読めなくなってしまうので「な」を採る。
3行目はP=ケンペルマンは「としきはとまね かねこなる」、吾郷清彦は「ひきこはひまひ かひやふる」と読んだが、以上の検討結果、第三案として「ふしやはとまひ かひこなる」と読んでみる。
新案の「ふしやはとまひ かひこなる」はとりあえず「富士や鳩舞ひ、蚕なる」と思いつくが、これでは旧案同様、意味をなさない。あれこれ考え、「伏屋は富まひ」と解いてみた。
「ふしや」は「伏せ屋」(みすぼらしい家という意味の古語)の訛りではないかな。「とまひ」は「とまふ」。「富む」に成し遂げることを表わす助動詞「あふ」がついた「富みあふ」の縮約語。「ついに豊かな家になった」の意味。もしくは「富む」に状態が継続することを表わす「ふ」がついた「富まふ」。「豊かな家になっている」の意味。
そうすると第三句は「蚕なる」でも意味は通り、むしろ語感はその方が自然だが、少し面白味に欠けるので、別の解釈も試みる。「ひこ」は「曾孫」、「なる」は「生る」(うまれる)。今でも子ができることを「子をなす」という。「か(彼)〜」は少々わかりにくいが「あっちにいる我が子には〜」もしくは「あの子の〜」というニュアンスの接頭語。
結論、「みすぼらしかった我が家も豊かになり、もうすぐ曾孫も生まれる」の意味。完璧にスカッとはいかないがどうだろうかな?
全文新訳試案
「カミウタ カミはゆく フシヤはとまひ かヒコなる マスミのかかみ オモかはりてや あ」
「御神歌 主は逝く 伏屋は富まひ か曾孫なる 真澄鏡 面変はりてや 嗚呼」
(この社の神に捧げる歌
「歳の離れた夫が逝き ふりかえれば
夫とともに暮らしたみすぼらしかった我が家は今では豊かになっており
あそこにいる我が孫にもうすぐ曾孫も生まれる
鏡をみれば自分の顔も歳とともに変わってしまったものだなぁ」
あーあ[こんな歌を詠んでしまったよ、という詠嘆w])
----------------------------------
【告知文】05/31(日)春の遠足3・飯島愛追悼企画「ウチくる!?」形式で弁天様に捧げる幻の漫画「飯島愛私の初体験」と神代文字の石碑より転載
飯島愛がレギュラー出演していた懐かしの番組「ウチくる!?」と同じ形式で、Fridaさんの住む町をFridaさん自身が案内してくれる遠足です。下記のプログラムの合間ごとにFridaさんによるいろいろな面白い地元案内がアドリブで入ります。
1)柴又寅さん記念館
柴又駅の駅前にあります。ここで見学しながら、のんびり合流。(参加者が集まるのを待ちながら見学)
朝9時の開館から遅くても12時までにお入り下さい。
2)12時半、軽くお昼をとります。近くに「biscuit」と言う美味しいケーキ屋さんもあり。水元公園での飲み食いがメインなのでここは食べ過ぎないように。
2)午後1時、レンタサイクル。以降のコースは自転車で。
http://www.eco3196.com/rental_tokyo00004.html
3)三社めぐり
・金町の葛西神社→半田稲荷神社→東水元の香取神社
祭り囃子発祥の地とされる由緒ある古社で今も盛んに信仰されている芸能の神様弁天様に、飯島愛の冥福をあらためてお祈りします。江戸時代以来疫病封じで名高い神社には、インフルエンザの危ない時期だからこそ念入りにお参り。境内の碑文は1877年に来日した考古学者ケンペルマンによってドイツの雑誌に紹介され阿比留草文字で「カミウタ カミハユク トシキハトマネ カネコナル マスミノカカミ オモカハリテヤ ア」とありましたが残念ながら十年以上前に破壊されて今はありません。古図録のコピーを配布して昔を偲ぶよすがとする予定。香取神社に着くまでに、いろいろ食べ物買いながら行きます。
4)水元公園
素晴らしい公園でゆっくり散策したり飲み食いしながら飯島愛の思い出を談ります。美味しいケーキ屋さんやアイスクリーム屋さんもあり。話のタネに、現在入手不可能な幻の漫画「飯島愛 私の初体験」を参加者全員に配布。死の真相や業界裏話などはかなり深く調査済みなので、話の流れ次第ではそういう話題も出るでしょうが、あくまで故人を悼み、その功績に感謝を捧げ、冥福を祈るのが主旨です。
神代文字の碑文はずいぶん古い時代に埋もれたらしいということしかわからない。
江戸時代後半だともう少しましな古典的な文語体で書くようになると思うのでそれよりは古いかも知れない。また半田稲荷が有名になった後に作られたなら、病気封じに関する内容になったのではないかな。
歌の前に「カミウタ」とあり、歌の後に「ア」とある。このアは吾郷清彦は「ウ」だというが所見ではケンペルマンの「ア」とする説で問題ない。「嗚呼」の意味だろう。もしくは「アア」、「アハレ」など続きがあったものが当時すでに碑文は割れて断片になっていたか。
初句は「かみはゆく」。この「かみ」は年長者・上位者・主人・天皇などをもさしうるので、強いて神社の神とばかりも決められないが仮に「神」とすると、「神は往く」は「神が去った」の意味だとすると不幸を暗示しうる。が、どちらというと雪の語源が神の御幸(みゆき)であるように神の臨在をいっているのだろう(祭日での神輿の往来とか)。あるいは二句三句の解釈によっては「神速く」の訛りという線もありうるか? 年長者・上位者・主人・天皇などを「かみ」ということもあるので、あるいは未亡人が夫の死去に際して詠んだ歌かも知れず、あるいは誰かが天皇崩御の際(時代の変わり目)に人生を振り返った歌かも知れない。
二句三句が問題の未解明部分。P=ケンペルマンは「としきはとまね かねこなる」、吾郷清彦は「ひきこはひまひ かひやふる」と読んだが、この二つの旧説ではどちらも意味不明。
四句と五句が「真澄鏡(ますみのかがみ)面変(おもか)はりてや」(訳:鏡をみると(歳をとって)顔が変わったなぁ)。真澄鏡は定型的な言い回しで、この場合は神社の古式の鏡を念頭におきつつ(御神体とかでなく)鏡の映り具合をほめているだけで、訳文の上ではあれこれ言わず単に「鏡」とするのがいいと思う。
なので未解明の二句三句はその文中にあって歌としての文意がつながらねばならない。全体としては、何か目出たいことか不幸なことがあり、年月を感じるという意味の歌らしい。
二つの旧説の解読文はどちらも意味不明だが、文法を無視して強いて意味を想像すると、ある程度の意味を想定はできる。
ケンペルマン説の「としきはとまね かねこなる」は「年来は(年際? 年月は?)止まね、予事成る」だろうか。予事(かねごと)は予想されたことという意味の古語、「かねこ」は少々ムリがあるが「かねごと」の縮約語とすると、「年月の流れは止まない、予想された通りになった」の意味か。和歌として成り立たなくはないが、老化を嘆くだけの暗い歌で、神社の碑文としては少し陰鬱すぎないか?
何かもっと目出たいことを祈願したものと考えた方がありそうに思う。
吾郷説の「ひきこはひまひ かひやふる」はさらに解釈が困難。とはいえ吾郷は文字の音価を定め直そうとしただけなので文意は考えてないのは当然だが、そこをムリして解読を試みる。ひまごを「ひこ」ともいうので「曾孫たち」の意味で「ひここ」、または「曾孫である子」の意味で「ひここ」といったもの、その「ひここ」が訛って「ひきこ」? 「はひまひ」は「這ひ迷ひ」(這い回り逃げ惑う)、「祝ひ舞ひ」(お祝いに舞い踊る)とまったく逆の二つの解釈ができる。「かひやふる」はさらにわからない。彼火矢降る(あの火矢が降って来た)、甲斐や溢る(生きた甲斐が溢れるほどあった)、貝や炙る(貝を焼いている)、穀破る(脱穀する)、甲斐屋振る(甲州屋が繁盛してる)等、こじつけはできるが、どれもややムリヤリな感じ。曾孫が出てくる第二句は年月の流れを連想させる下の句とよくつながるのだが、全体的にスッキリ繋がらない、とくに第三句が酷い。
3行目の解読で1文字目と5文字めは一見してまったくちがう文字であるにもかかわらず、どちらもケンペルマンは「と」、吾郷は「ひ」と読んでる。7文字目と9文字目は同じ文字であり、ケンペルマンは「ね」、吾郷は「ひ」と読んでる。5文字目と7・9文字目はまったく違う文字であり、すべて「ひ」と読む吾郷説はいただけない。「ひ」「と」「ね」の3文字を比べると、すべてぐにゃぐにゃの線で区別がつかないように思うかも知れないが、いくつかの書体例から草書に崩れる前の原形を推定すると、案外にシンプルな「決め手」がそれぞれ決まっているのが判明する場合がある。「ね」は上の横棒の右端から下に線が下がった形(「フ」の「ノ」が真っすぐになった形)であり、「と」は「ヘ」のような平らに近い形である。「ひ」は平らににゅろにょろな文字だが決め手がわからない。
5文字目は「ひ」よりもはっきり「と」に似ているのでケンペルマンの説に従いたいが、7・9文字目は「ね」ではない。「ひ」は輪を上に結ぶ文字でもしその向きが決め手ならこの下側に結ぶ文字は「ひ」ではなくなるが、最後の左端から下方内側へ向かう撥ねが決め手ならば「ひ」に近いように思うので吾郷説を採る。問題の1文字目は「ひ」でも「と」でも「ね」でもなく、悩むところだが「ふ」だろうな。「ふ」も「ひ」と同じく、ただ横ににょろにょろしてるだけの文字だが「m」のように山二つの高さが揃うのが決め手らしい。
吾郷は2文字目を「き」、3文字目を「こ」とするが、ケンペルマンは3文字目を「き」、10文字目を「こ」とする。ケンペルマンは2文字目を「し」、吾郷は10文字目を「や」とする。「し」「き」「こ」「や」はどれも「フ」をぐにゃぐにゃに書いたように見えるが、全体的に「こ」は「く」の逆向き、「し」は「Z」、「き」は「7」のような印象になり、「や」は線の中程で右側に瘤のように張り出るのが決め手。
2文字目と10文字目はケンペルマン説でよいが、3文字目は「き」でも「こ」でもなく「や」だろうな。
11文字目はケンペルマンは「な」、吾郷は「ふ」とする。「な」の決め手は原形が「L」。
確かにこの書体では「ふ」の決め手も重合しているのだが、もし「ふ」だとすると、まったく違う文字にみえる1文字目に該当する文字がなくなってしまい読めなくなってしまうので「な」を採る。
3行目はP=ケンペルマンは「としきはとまね かねこなる」、吾郷清彦は「ひきこはひまひ かひやふる」と読んだが、以上の検討結果、第三案として「ふしやはとまひ かひこなる」と読んでみる。
新案の「ふしやはとまひ かひこなる」はとりあえず「富士や鳩舞ひ、蚕なる」と思いつくが、これでは旧案同様、意味をなさない。あれこれ考え、「伏屋は富まひ」と解いてみた。
「ふしや」は「伏せ屋」(みすぼらしい家という意味の古語)の訛りではないかな。「とまひ」は「とまふ」。「富む」に成し遂げることを表わす助動詞「あふ」がついた「富みあふ」の縮約語。「ついに豊かな家になった」の意味。もしくは「富む」に状態が継続することを表わす「ふ」がついた「富まふ」。「豊かな家になっている」の意味。
そうすると第三句は「蚕なる」でも意味は通り、むしろ語感はその方が自然だが、少し面白味に欠けるので、別の解釈も試みる。「ひこ」は「曾孫」、「なる」は「生る」(うまれる)。今でも子ができることを「子をなす」という。「か(彼)〜」は少々わかりにくいが「あっちにいる我が子には〜」もしくは「あの子の〜」というニュアンスの接頭語。
結論、「みすぼらしかった我が家も豊かになり、もうすぐ曾孫も生まれる」の意味。完璧にスカッとはいかないがどうだろうかな?
全文新訳試案
「カミウタ カミはゆく フシヤはとまひ かヒコなる マスミのかかみ オモかはりてや あ」
「御神歌 主は逝く 伏屋は富まひ か曾孫なる 真澄鏡 面変はりてや 嗚呼」
(この社の神に捧げる歌
「歳の離れた夫が逝き ふりかえれば
夫とともに暮らしたみすぼらしかった我が家は今では豊かになっており
あそこにいる我が孫にもうすぐ曾孫も生まれる
鏡をみれば自分の顔も歳とともに変わってしまったものだなぁ」
あーあ[こんな歌を詠んでしまったよ、という詠嘆w])
----------------------------------
【告知文】05/31(日)春の遠足3・飯島愛追悼企画「ウチくる!?」形式で弁天様に捧げる幻の漫画「飯島愛私の初体験」と神代文字の石碑より転載
飯島愛がレギュラー出演していた懐かしの番組「ウチくる!?」と同じ形式で、Fridaさんの住む町をFridaさん自身が案内してくれる遠足です。下記のプログラムの合間ごとにFridaさんによるいろいろな面白い地元案内がアドリブで入ります。
1)柴又寅さん記念館
柴又駅の駅前にあります。ここで見学しながら、のんびり合流。(参加者が集まるのを待ちながら見学)
朝9時の開館から遅くても12時までにお入り下さい。
2)12時半、軽くお昼をとります。近くに「biscuit」と言う美味しいケーキ屋さんもあり。水元公園での飲み食いがメインなのでここは食べ過ぎないように。
2)午後1時、レンタサイクル。以降のコースは自転車で。
http://www.eco3196.com/rental_tokyo00004.html
3)三社めぐり
・金町の葛西神社→半田稲荷神社→東水元の香取神社
祭り囃子発祥の地とされる由緒ある古社で今も盛んに信仰されている芸能の神様弁天様に、飯島愛の冥福をあらためてお祈りします。江戸時代以来疫病封じで名高い神社には、インフルエンザの危ない時期だからこそ念入りにお参り。境内の碑文は1877年に来日した考古学者ケンペルマンによってドイツの雑誌に紹介され阿比留草文字で「カミウタ カミハユク トシキハトマネ カネコナル マスミノカカミ オモカハリテヤ ア」とありましたが残念ながら十年以上前に破壊されて今はありません。古図録のコピーを配布して昔を偲ぶよすがとする予定。香取神社に着くまでに、いろいろ食べ物買いながら行きます。
4)水元公園
素晴らしい公園でゆっくり散策したり飲み食いしながら飯島愛の思い出を談ります。美味しいケーキ屋さんやアイスクリーム屋さんもあり。話のタネに、現在入手不可能な幻の漫画「飯島愛 私の初体験」を参加者全員に配布。死の真相や業界裏話などはかなり深く調査済みなので、話の流れ次第ではそういう話題も出るでしょうが、あくまで故人を悼み、その功績に感謝を捧げ、冥福を祈るのが主旨です。
登録:
投稿 (Atom)