2680年1月19日に多摩屯所にて月例会を開催いたしました。その際、自主講座として本会スタッフのむらさぎ氏より「高御座の意義」について、國體原理の観点から解説をいただきました。以下、当日の資料とともに簡単にレポいたします。
(むらさぎ作成、メモ書きはしか)
最初に「(1)観念整理」として、天皇即位にまつわる儀礼を三つに分類し、その中でも一般的に知名度の高い「大嘗祭」は、神話の反映が見られず、あくまで即位後最初の新嘗祭という位置づけに過ぎないとのことでした。
その後「(2)三者の関係史」にふれてから、「(3)日本書紀の記述(沿革)」にそって、①剣璽渡御の儀の原型としての「捧璽即位」と、②即位礼の原型としての「設壇即位」の解説がありました(資料右ページを参照)。まず①「捧璽即位」(○印)は、允恭天皇の事例が起源であり、この天皇でいいのか疑いのある場合に、群臣が一致して神器を捧げ奉り、即位を要請するものであった。それに対して「設壇即位」(□印)は、雄略天皇の事例が起源であり、天皇が自ら「壇(=高御座)」にお上りになることで、その即位の正統性を示すものでった。つまり國體原理の観点からいえば、天皇意志の顕現である後者がより重要であるとのことでした。
最後に「(4)タカミクラの神話的起源」では、その意義について詳細な解説がありました。まず漢語の「壇」と大和言葉の「タカミクラ」は意味がまったく異なっており、高御座とは、周囲を帳(トバリ)で囲っている御帳台である。雄略天皇は、即位の正統性を示すために、天孫降臨を再現する儀礼として「設壇即位」を行った。つまり高御座の神話的起源は、「まどこおぶすま」にある。また即位礼の人員配置で、古くは天皇の両脇に武官が立ったのは、天皇がすぐれて軍事的な存在であったことを示している。といった多岐にわたる話がありましたが、その全貌はなかなか言葉を尽くしきれず、ごくかいつまんでの紹介になってしまい恐縮です。
参加者を交えての議論では、本来は高御座に上るとは、お披露目というよりも、お隠れになることであり、人々からは目に見えない存在になることに意味があったのではという話もありました。歴史の変遷とは、まこと面白いものですね。しかしそればかりでは不十分で、時には國體原理に立ちかえることもまた必要なのでしょう。
以上、ごく簡単ではありますが、レポとさせていただきます。uyopediaの「即位」の項もあわせてご参照ください。(しか)