【序】悠仁親王誕生と皇位継承問題
30年前の9月、日本の古代史が(というより学界が)激震に見舞われた世紀の大発見がありました。それにより左翼学説の権威が地に墜ち、この時から日本の保守回帰が静かに、しかし力強く始まったのです。みんな忘れてるけど(生まれてなかった人ももう多いだろうし)。あれは天佑であり神風でした。日本の保守系世論の復興なくして、70年代さながらの左翼的空気が国民感情を覆っていたならば、こんにち皇位継承問題における男系保持の世論がここまで力を持つことはありえたでしょうか。
くしくも当日の9月6日は、悠仁親王満3歳の誕生日でもあります。皇位継承問題=いわゆる男系女系論争では、「女系」派の巨頭である田中卓は、かつては稲荷山鉄剣に刻まれた最古の「男系」系図の解釈から記紀の古伝承の事実性を論証した人物でありました。
記紀を歪曲しようとする左翼学説との激闘史を学び、皇国史観=万世一系の正しさを知っている現代のウヨならば、歴史が武器として顕現したかのような奇跡の剣に刻まれた輝く金文字に、深い感動を禁じ得ないことでしょう。
【1】その歴史的背景
70年代までの日本は左翼全盛期だったが、平成時代以降は右傾化(正常化?)して現在に至っているのは周知の通り。(この認識の段階で話が噛み合ない人とは致命的に会話が成り立たない)。この変化はいうまでもなく突然移行したわけではなく、その両時代の間に、80年代の「価値相対」時代があった。80年代といえば、いろいろ否定的な評価をいくらでもいいたい人もいるだろうが、とりあえず絢爛たるサブカル文化の黄金時代であり、その圧倒的な豪奢な光を背負った若者たちが、空疎な説教をふりまき鬱陶しい抑圧を繰り返してきたおっさんたちの貧乏くさい左翼気分を嘲笑し去ったことは事実である。これは全共闘への皮肉として70年安保ならぬ80年安保とも言われた通り、世代間抗争であり復讐であった。80年代の価値相対時代なくして、平成の保守回帰はありえたであろうか。80年代といえば、いろいろ批判・非難をしたい人もいるだろうが、平成の右傾化を用意したのもまた紛れもなく80年代だったのである。
さてその80年代という一つの時代は、実は昭和53(1978)年から始まったというのが、以前からの私の説である。その年には、年表でみると、その時期に十代を過ごした者にとっては、単に懐かしいだけではなくサブカル全盛期の開始にふさわしい彩り豊かで華やかな思い出がならんでいるからだ。
その年はまた、日本古代史にとっても、大きな区切りの年だった。いうまでもなく「稲荷山鉄剣」の金象眼(金象嵌)の115文字の発見である。
それ以前、70年代までの日本の古代史学界は世間の左翼風潮のまま、古事記や日本書紀の古伝承を天皇家が自分らの権力を正当化するため好き勝手に捏造したものであり史料的な価値はないとして、記紀の諸系図に現われる殆どの人間を「伝承上の存在」「実在しない架空の人物」とみなし、天皇架空説・王朝交代説・征服王朝説など、万世一系を否定する妄説を、アカデミズムの権威の下で堂々と唱えてきた。
この115文字が出現のニュースは、毎日新聞が9月19日の夕刊で他社をだしぬいて大スクープをものにしてから、大手新聞社や大マスコミのことごとくが、あるいは一面トップ、あるいは見開き左右両面ぶちぬき、あるいはタイトル三段ぬきで後追いながらも連日の報道。解説やコメントに古代史学者が総動員されたが、何も知らない一般人は、ただ諸説入り乱れてるんだなぁぐらいの認識がせいぜいだったかも知れない。しかし、この発見は、古代史業界にとっては、大東亜戦争の敗戦による断絶よりも大きな、喩えていえば明治維新に匹敵するような大事件だった。ある程度の研究史を知り、学界の空気を知っていれば、名だたる大御所たちの頓珍漢なコメントやあわてふためいて自説崩壊を糊塗する醜態に苦笑せざるを得ないものだったし、左傾学説にうんざりしていた者にしてみれば、今でいう「ワクテカ」、「飯ウマ」状態だったことが忘れられない。
またこの期間、毎日新聞は『雄略天皇の名解読』、『わしは雄略帝の片腕だった』、『オホビコは四道将軍の「大彦命」崇神天皇が派遣』と、当時すでに皇學館教授だった田中卓の説を好意的に紹介した。また翌年、田中卓は一般人向けに『古代天皇の秘密』(太陽企画出版)を著わし、それまで(今でも?)定説とされる左傾的、反天皇的な諸学説を、一つ一つ丁寧に解きほぐしてみせたが、鉄面皮な団塊世代に対しては、今ひとつ手応えがなかったように当時は感じられたかも知れない。
学者たちは、しばらくは何も変わってないような、とりすました顔をしていたが、しかし今思えば、あの時、アカデミズムの権威は完全に失墜したのだと確信をもって断言できる。それまでは、学者様はえらいという思い込みがなんだかんだ言っても支配的であった。だが明らかに学界の空気は一変した。学界では、王朝交代説や征服王朝説は、学界では腫れ物にさわるように否定も肯定もしないで棚上げされるようになり、学者ではないライターの手になるマニア向けの通俗古代史本の中で、煽り文体ばかりが仰々しい古代史の「謎」としてしか読まれなくなった。鉄剣によって、80年代はアカデミズムの権威すらも相対化された時代なのである。
あれから十年、平成になって右傾化の時代とインターネットの時代が同時にきた。電脳空間でも古代史趣味の庶民のヨタ話は相変わらず花盛りであった。今でも2chやmixiでは、昔ながらの左傾史観に毒された古代史謎解きごっこが跡を絶たないが、それは通俗古代史本のライターが団塊世代だったこと、それら駄本がしばらくは(いや、今も)流通していたことで、下の世代も影響を受けたせいである。しかし、かつてと異なるのは、記紀の古伝承に準拠した古代史像を信奉する正しい国民意識をもった若者が、昔では考えられないほど増殖したことである。2chの最盛期、歴史板には学界の通説を左翼的歪曲としてこきおろしつつ完膚無きまでに論破する痛快な「名無し」が続出していた。彼らは名もなき顔の見えない同志だった。妙に学界の内部に通じていた者もいたので、もしかしたら、中には老害教授に抑圧され世を儚む万年講師やペーパードクターもいたのだろう。その頃には少なくともネット上では単なる左翼的反天皇学説ではなく、朝鮮民族史学(俗にいうウリナラ史観)にとってかわられていた。これは反日的な古代史学説(?)の新たなネタ元になり、「非学問的な意味」で、いまだ重大かつ微妙な局面にあり、解決の見通しが立っていないが、事の顛末など詳細は別の機会に譲る。
それからまた十年。平成10年代、皇位継承問題が勃発し、男系護持派と女系容認派の論争が、少なくとも保守派の内部では前者の勝利に落ち着くかとみえた平成18(2006)年2月16日発売の『諸君!』三月号で、久々に一般人の前に現われた田中卓は、女系容認論を展開した。かつての俊英とは殆ど別人のように稚拙なその議論は、明らかに男系派から不満と反発で迎えられ、それに対する再反論は今でもネット上で多く読むことができる。とはいえ、左翼全盛期の嵐の下、伊勢の皇學館で、ひたすら地道に研究を重ね、アンチ左翼・保守系の古代史学者としては最大の大物であるのみならず戦前からの伝統を引く皇國史観の守護者のように思われてきた田中卓の態度表明はそれなりに大きな衝撃を与え、男系論優位の流れに大いに水をさした。鳴りを潜めかけた高森明勅を調子付かせ、いつまでも態度を明確にせずはぐらかし続けていた小林よしのりが後に『天皇論』で女系派宣言をすることになる導火線ともなった。しかし、田中卓の女系容認論は、独自の新しい論点で女系論を一新させたわけでも強化したわけでもない。なにひとつも目新しいことをいっていない。すでに議論し尽くされたことを蒸し返しただけだった。この戦術は女系派に一般的にありがちな傾向で、小林よしのりも(無知を装ってか本当に勉強不足でか)『天皇論』でやっている。もし、田中卓が、老人性痴呆症でないのならば、これは「時間かせぎ」であって、「何か」を待っているのである、と推測するほかない。
【2】金文字が証した記紀の系譜
(この章は当日に口頭で解説・議論)
【3】田中卓の限界と問題点
もっとも当時から私は田中卓を全面的に信奉していたわけではない。(以下かきかけ)
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