((※各項の詳細はそれぞれのリンク先を参照)
【王月期】(11/18-12/14)
12/14(日)
東京・昼・幕末動乱と戊辰戦争を振り返る会part2(「会津から見る明治維新(仮題)」開催準備会議第4回)
(※12時半、新宿東南口ウェンディーズ)
東京・夕・守谷さん(元伝承文化研究所)を囲む会
(※2時、西武喫茶新宿店)
大阪・☆皇統の未来を守るオフ@三周年☆浪華伝住吉大社現代記☆
12/10(水)源氏物語千年紀記念 雅楽&シンポジウム&展覧会
(※正午以降で任意in学習院・無料)
12/07(日)
朝・神道霊学研究会
(※午前10時より/東上線上板橋駅改札待ち合わせ)
昼・幕末動乱と戊辰戦争を振り返る会(「会津から見る明治維新(仮題)」開催準備会議第3回)
(※午後2時より/池袋「ちどりの巣」)
11/30(日)氷河を渡る〜日本列島人類文化のパイオニア期
(※PM3:30現地集合)
11/29(土)
(夕)文明史講談会&「素読の会」準備会議(第1回)
(夜)「会津から見る明治維新(仮題)」開催準備会議第2回
(※夜10時半・新橋「さくら水産」)
11/26(水)和歌朗詠ライブ 萬葉歌で辿る日本の心◎
11/21(金)-24(休)関東・したまちコメディ映画祭in台東
11/24(休)関西・拜跪聖陵─現代に於ける実践的皇陵崇敬の意義☆
11/23(日)天狗党の集い
【士月期】(10/22-11/17)
11/16(日)
(昼)天皇陛下ご即位二十年奉祝記念映画第二弾上映会
(夜)「会津から見る明治維新(仮題)」開催準備会議
(夕5時・新橋駅SL前待ち合わせ)
11/09(日)妖怪謝肉祭5in阿佐ヶ谷ロフトA・昼の部
11/08(土)突発飲み会in田町
11/03(祝)入間航空祭
11/02(日)明治天皇の御製や教育勅語に親しむ会
11/01(土)神道霊学研究会/塩土老翁神と猿田毘古神
10/26(日)
東京・義和団再来か?中華ナチズムか?震撼する中国と瀕死の北朝鮮を探る
京都・☆皇統の未来を守るオフ34☆青蓮院宮餘薫追懐☆
【十月期】(09/25-10/21)
10/19(日)天皇陛下ご即位二十年奉祝記念映画上映会
10/18(土)地政学~トランスコーカサスをめぐって~
10/12(日)
朝:恵比寿のサンマ祭
(※早朝任意の時間。ただし遅くても午前11時までに現地で合流)
夕:西園寺さん送別会
(※午後5時半に靖国神社の神門集合)
10/11(土)朝までミシェル・ゴンドリー
開映23:00終映05:05オールナイト3本立て渋谷シネマライズ
10/04(土)「神主作法入門」体験会(於・高麗神社)
【九月期】(08/29-09/24)
09/21(日)「誰も知らないイランの絵本」展
(※イベント自体は9月12日(金)から24日(水)まで開催)
09/14(日)
朝~昼:目黒さんま祭
夕~夜:インド映画上映会
09/12(金)フランス映画際
09/07(日)歌を詠む会~悠仁親王殿下の生誕二周年をお祝いして~(※13時〜、@「ちどりの巣」、宮内庁のお題は「生」)
【八月期】(08/02-08/28)
08/24(日)「戊辰戦争140周年記念ツアー」報告会
(※17時より、池袋「千登利」にて)
08/18(月)-21(木)(三泊四日)
戊辰戦争140周年記念ツアー
08/17(日)皇統の未来を守るオフ@宇治☆
08/16(土)儒教と史学から見た中国問題
08/10(日)雑想・雑学から入る「中国の本質」
08/02(土)(※16時半・阿佐ヶ谷駅北口で待ち合わせ)
「佐藤悟志総統閣下にお伺いを立てる会」
in阿佐ヶ谷バリ舞踊祭「環(メグ)ル森」
【七月期】(07/05-08/01)
07/29(火)-8/1(金)(三泊四日)
突発企画・古神道秘教霊学大研修合宿(&伊勢神宮参詣)
(※23時/新宿駅西口バス乗り場集合)
07/29(火)チベットも拉致問題も踏みつぶす、中国共産党と福田売民内閣を問う
07/28(水)「ギララの逆襲」鑑賞会
07/27(日)
(関東)真心の学問会2竹田恒泰氏講演◎
(関西)皇統の未来を守るオフ31仁徳天皇陵参拝と清掃奉仕☆
07/26(土)神戸みゆき追悼記念講談
「セーラームーンで早わかり古神道の極意」
(※11時に西武新宿駅ビルPePeのエスカレータ前もしくはPePe内の書店で待ち合わせ)
07/23(水)三色盛り合わせイベント(10時半,上野駅公園口集合)
(朝〜昼)「黄金の国ジパングとエル・ドラード展」見学
(昼〜夕)「塩漬け繭の織物展 洛風林」見学
(夕〜夜)映画「バックドロップ・クルディスタン」観賞
07/21(祝)「池田駿介スペシャルトールショー」&「ギララ祭」見物
(※WCC(ワールドキャラクターコンベンション・ゲートオブザネクスト)内)
07/20(日)【多摩】明治天皇と日本を考える
07/13(日)〜16(水)みたままつり
07/09(水)突発オフ「浅草・四万六千日」ぶらぶら飲み会
【六月期】(06/08-07/04)
07/01(火)「大三国志展」見物
06/29(日)講談「天津罪国津罪からみた神道における正義と悪」
06/24(火)「僕らを育てた正義の味方・原作者編〜川内康範〜」 見物
06/22(日)
(関東)「特講「邪馬台国は畿内か九州か」対決第2弾!」聴講オフ
(関西)学習会「皇室典範史」☆
06/21(土)丸尾末広二本立てオフ
(昼)丸尾末広画出版記念「パノラマ島綺譚」展
(夕)丸尾末広フェア
06/15(日)「ナンシー関 大ハンコ展」見物
06/08(日)「高句麗『広開土王碑』その過去と現在」聴講オフ
【五月期】(05/12-06/07)
06/07(土)
(午前)「気仙沼物産展」見物
(午後)古事記を読む会vol.11
06/05(木)
(午前)「ダーウィン展」第二回見学会
(午後)仏アニメ「ペルセポリス」観賞会
06/04(水)「昭和三十年代主義とはなにか」
05/28(水)「ダーウィン展」第一回見学会
05/24(土)25(日)東大「神社・神道研究会」第二回・五月祭講演
05/18(日)安野光雄絵本三国志展
05/17(土)
(関東)古事記を読む会10
(関西)☆皇統の未来を守るオフ@岩倉☆
【四月期】(04/15-05/11)
05/05(祝)ハワリンバヤル2008 →こちら(mixi・BBS)
05/03(祝)映画「靖国YASUKUNI」オフ →こちら(mixi・BBS・2ch)
04/27(日)
(関東)小栗上野介企画展第二部 →こちら(mixi・BBS)
(関西)学習会「山本日本学から見えてくる『天皇』」☆
04/22(火)靖国神社春季例大祭参詣オフ会(附/浅草&浜離宮見学会)
04/19(土)古代史の解体と構築 →こちら(mixi・BBS)
04/19(土)映画「南京の真実」観賞(於・靖国神社遊就館)
☆印は「皇統の未来を守るオフ」主催
◎印は「伝承文化研究所」主催
※これ以前の活動記録は ⇒こちら
※これ以後の活動記録は ⇒こちら
2008/12/11
2008/12/10
12/07神道霊学研究/茂呂山遺跡探索調査
神道霊学研究/茂呂山遺跡探索調査
■12/07(日)午前10時より
■東上線上板橋駅改札待ち合わせ
-----------
附論:「ヨセフの塚」について
【序】
有名な阿不利神社の鎮座する神奈川県の大山、その麓に「真磬塚」(しんけいづか)とよばれるマウント状の古墳がある(現在では浄水場や民家がつくられ上部が平らに変形している)。この古墳が一部のへんな人たちの世界では「ヨセフの塚」として有名なもの。これをめぐるあれこれのおもしろい話はいろいろあるのだが、すべてを語れば本1冊にもなるので省略。この「真磬塚」及びその近辺はおもしろいものが多く、古代ミステリーマニアが探索するのにはおすすめの楽しいところではある。
【第二の大山】
さてこの「大山」、単純な地名であるだけに関東各地に大山という地名が残る。多くは阿夫利神社へ詣でるために張り巡らされていた街道「大山道」(おおやまみち)の出発地点や岐路、主要な宿泊地だったところという。その一つが、東武東上線「大山駅」(板橋区大山町)である。
そもそもこの町との出会いは、オカルトブームで『ムー』の読者たちの多様な民間サークル活動が花盛りだった80年代。「デビリッシュ♥アイ」「アールブヘイム妖精館」「隠れ里」…その他いろいろのサークルがあった。これらが連帯して活動するために「妖怪連合」という協力推進団体が存在した。といってもお互いのイベントに頭数を出し合ったり合コン飲み会したりコミケに出した機関誌を交換したりという程度だが。この「妖怪連合」のイベントが大山で催され、それに参加したのが始まりだった。
上記の「隠れ里」は妖怪研究会としてその後、現在活躍中の多くの有名な妖怪業界人を輩出したが、私も一時期、隠れ里の会合や遠足に何度か参加したものである。
とはいえ、大山のイメージは当時はあまりよいものではなかった。なんとなく垢抜けない泥くさい当時のオカルトサークルにはミスマッチな、それでいてとりとめもなくまとまりもない田舎の印象だった。
【問題の出所】
神奈川県の大山でなく、この板橋区の大山にもヨセフの塚がある、という話をきいたのは今から20年以上も前のことで、それまで聞いた事もなく、大山という同名に紛れた間違いだろうと断定したのだが(つかそもそも元のヨセフの塚自体がヨタ話なのに間違いも糞もあるかって話もあるがそれはさておき)、この話を教えてくれた齋藤靖という人は、「いや、間違いではない、遺跡かなんかあったんだよ、何人かで見に行ったこともある」と言い張っていた。実際、大山にいってきたのだがよくわからなかった。「道祖神とか庚申塔みたいなもの?」と聞いたが「そうじゃないよ、ちゃんとした遺跡だよ!」とのことだった。あるいは「大山じゃなくて、大山の『近く』のどこかでしょう?」と確認したが、「いや、ずばり大山だったはずだよ」と譲らない。私の疑問は宙ぶらりんになった。それが20年来の気がかりだったわけである。
彼はうそをいうような人ではない。この齋藤靖って人は『ムー』が扱うようなネタ全般という意味での「オカルト」関係者で、その人脈の多彩さと人望と性格の面白さとカバー範囲の広さ(鎌倉の洞窟探検譚など今でも謎に満ち興味深かった。最後に会った頃は、鍼灸や整体など身体医術にハマっていて「仙骨一元論」を唱えていた。発明家で身体医療家でなんでも屋の、得体の知れない人で顔は山口良一)で、なかなかの好人物であり、堤裕司とも長年のコンビだった(堤裕司氏は日本最初のダウジングの専門家で「日本ダウザー協会」を設立。80年代には心霊現象を解消するプロ「ゴーストバスターズ」を結成し写真週刊誌やテレビなどにかなり出ていた。その頃から斎藤・堤の両氏は疎遠になったという。ちなみに私も入れて三人ともほぼ同年。オウム世代?w)。そんな人間、いちばん信用ならねぇ典型的なタイプじゃねえかよ、といわれるかも知れないが、そうではない(ある意味そうだけど)。ある枠組み(というか約束事というか)の中では誠実なものなのである、我々は(俺もかよ)。
【大山町の探索】
そこまではいいのだが、そういうわけで私は機会があるごとに(といっても10年に1回とかその程度だが)板橋区の大山に出かけたり、調べたりしたものだった。それでまず驚いたのは、記憶の中の大山町の面影が全然なく、まったく別の町のように思われた。建物や景色だけでなく地形も地図も何ひとつ記憶と噛み合う部分がない。狐につままれた気分。もしかしたらまったく別の町を大山町だと間違えて記憶してたのかも知れない。大山駅から歩いたのは確かなのだが…? それはまぁさておいて、ともかく大山駅のある大山町の他に大山東町・大山西町・大山金井町が隣接しておりこれらを合わせた四つの町を広義の大山町(大山4町)とみても、調査に苦しむほどの広さはない。
しかしこの範囲にはめぼしい遺跡はない。
関東平野は長い間中央からみれば田舎で平安時代に武士が発生した頃からようやく開拓されたかのように思われがちだが、実は意外にも先史遺跡のひじょうに密集した地域なのである。旧石器時代や弥生時代も多いが、縄文時代と古墳時代がとくに充実して(縄文といえば東北地方が中心だが、こと縄文中期に限っていえば関東が中心だった)いて、住居遺構や貝塚はいうまでもなく、古墳が多いのも目につく。東京都が公開している遺跡地図をみると、ほぼ東京全土が遺跡の上にあるといっても過言ではない。
にもかかわらず、大山4町は、まるで遺跡と遺跡の間に落ちたように、遺跡地図に重ならないのである。大山4町から離れてしまえば、近隣にめぼしい遺跡はいくらでもあるのだが、逆に多すぎて特定できない。もっともメジャーな遺跡は、「茂呂山遺跡」といい、大山駅から二つめの上板橋駅から徒歩10分ほどのところにある。特に目立つのはこれだが、しかしこれだとあまりにも離れ過ぎである。大山町からはずれる場所ならば、最初からその地名でいえばいいのであって齋藤氏が「大山」にこだわった意味がない。
一度、これといった手がかりもないまま大山駅周辺を探索してみたものの、駅の近くの「子易神社」がおもしろかった他は、とくに何の収穫も得られなかった。「子易神社」は霊験もあらたかで由緒もあり、境内社の宗像神社は小さな祠でその泉は今でこそ汚い池だが往事はさも美しい水苑だったろうと思わせる風格がある。
【謎の解明】
結局なにもわからず仕舞い。それなら事のついで、近くなことだし、有名な「茂呂山遺跡」(上述)でも見ておくか、というわけで「茂呂山遺跡」の地図を詳細にみると、あにはからんや、「大山高校」の隣ではないか???
ここは大山町ではない。小茂根5丁目というところで同じ板橋区内とはいえ大山4町とはだいぶ離れている。
しかし、誰でも瞬時にはっきりと確信するだろう、つまり、齋藤氏のいっていた「大山」というのは「大山高校の隣」だったために、あのへんが大山という地名なのだと誤認していたに違いないということを。
だがなぜ大山でないところに大山高校があるのか? 大山高校に直接電話して確かめたところによると、そもそも大山高校はかつて夜間高校で今の栄町にあった。栄町は大山町と大山東町に隣接するものの、大山4町とは別の町である。しかし夜間高校ということで通学の便宜から最寄駅の名をとって「大山高校」と名付けられた。後に全日制となって現在の地に移転してからも、伝統ある学校名を継承維持してきたという。
【茂呂山遺跡】
茂呂山遺跡をみることができるのは三つの側面で道を挟んで大山高校側、それと石神井川に接する側、大山高校の反対側。どれも金網の柵が巡らされて入れず見え具合は一長一短で少々じれったいが石碑や表示板は立っている。他の側面は民家や建設会社の敷地に阻まれてみえない。面積としてはきわめて狭小というしかないが住宅街の中ではこうなってしまったのもやむをえない。古くは大山高校の敷地や石神井川を挟んで北に位置する城北中央公園なども含む広大な地域が「茂呂山」(もろやま)と称したという。
現在の茂呂山遺跡は広義の茂呂山の中心部で、かつての住民はここ(広義の茂呂山の中心)を茂呂山ではなく「オセド山」と呼んでいた。みた感じ地面が盛り上がって高くなってるだけで、一面ただの雑木林である。
日本考古学上、きわめて重要な遺跡であり、これに匹敵するものは群馬県の岩宿遺跡しかない。どちらも縄文時代以前の、旧石器時代の遺跡である。
【セド】
ところでこの「オセド山」という名が気になる。
オセドというのは原型は「セド」で、地名や姓として全国に存在する。
セドまたはセトと読む場合には「脊戸・背斗・勢戸・瀬戸・瀬斗・門廻・世登」などと書き、セドウまたはセトウと読む場合には「背洞・瀬洞・瀬東・瀬道・瀬藤・世道・勢頭」などと書く。語頭に「御・尾・小」などがついて「オセド」「オセドウ」などとなっている場合も多く、さらに「御伊勢堂」と訛って神明宮(伊勢神宮の分社)が祀られるに至り、語源と由来が逆転しているケースもある(神明宮を祀ったのが先でそこから「御伊勢堂」という地名が起こったという解説を稀にみかけるが誤り)。姓としての「門廻」(せど)氏は金沢市周辺にあり全国でも数世帯しかない珍姓。
このセドなるものは、一般的な説でいわれるのは「背(すなわち後ろ)の戸」の意味で、第一に裏口や勝手口の意。第二に家の裏庭または裏手の土地(裏口から出た所だから)。第三に裏庭や家の裏手にある「井戸」。実際にこれらの意味で使われていることもあるが、それだけではない何かがありそう。
これらの地名には考古学と縁がある。青森県五所川原市のオセドウ貝塚遺跡から人骨が発見されており、これが長腿彦の骨じゃねぇべかってんで一部のへんな業界(『東日流外三郡誌』関係業界)の人々の間で有名だが、そんなヨタ話はさておいても、全国の「セド系」の地名には人骨が発掘されたり貝塚や古墳だったりする例が多い(ちなみに貝塚をゴミ捨て場と思ってる人がいるがとんでもない間違いで、食べ物となった生き物の霊=幸(さち)を与えてくれた神霊の祭祀場である。アイヌの熊を祀るごとし)。
貴人の葬儀を行なってそのまま墓地にするような所ならば、「去り所(さりど)」というような意味だったのではないか。いずれにしろ、セドというのは意味や語源の辿れない太古の言葉の残存で、なんらかの聖地だった所のように思える。
【結】
すったもんだで今回は「考古学の見学」ではなくてほとんど「霊視・霊査の旅」だったわけだがw
脱線はこのぐらいにしてしてそろそろ本題に入ろう。「ヨセフの塚」をめぐるあれこれのおもしろい話はいろいろあるのだが、今回は省略。もし神奈川県の阿夫利神社のある大山の麓を散策する機会があれば、その時に改めて詳しく問題にしたい。
■12/07(日)午前10時より
■東上線上板橋駅改札待ち合わせ
-----------
附論:「ヨセフの塚」について
【序】
有名な阿不利神社の鎮座する神奈川県の大山、その麓に「真磬塚」(しんけいづか)とよばれるマウント状の古墳がある(現在では浄水場や民家がつくられ上部が平らに変形している)。この古墳が一部のへんな人たちの世界では「ヨセフの塚」として有名なもの。これをめぐるあれこれのおもしろい話はいろいろあるのだが、すべてを語れば本1冊にもなるので省略。この「真磬塚」及びその近辺はおもしろいものが多く、古代ミステリーマニアが探索するのにはおすすめの楽しいところではある。
【第二の大山】
さてこの「大山」、単純な地名であるだけに関東各地に大山という地名が残る。多くは阿夫利神社へ詣でるために張り巡らされていた街道「大山道」(おおやまみち)の出発地点や岐路、主要な宿泊地だったところという。その一つが、東武東上線「大山駅」(板橋区大山町)である。
そもそもこの町との出会いは、オカルトブームで『ムー』の読者たちの多様な民間サークル活動が花盛りだった80年代。「デビリッシュ♥アイ」「アールブヘイム妖精館」「隠れ里」…その他いろいろのサークルがあった。これらが連帯して活動するために「妖怪連合」という協力推進団体が存在した。といってもお互いのイベントに頭数を出し合ったり合コン飲み会したりコミケに出した機関誌を交換したりという程度だが。この「妖怪連合」のイベントが大山で催され、それに参加したのが始まりだった。
上記の「隠れ里」は妖怪研究会としてその後、現在活躍中の多くの有名な妖怪業界人を輩出したが、私も一時期、隠れ里の会合や遠足に何度か参加したものである。
とはいえ、大山のイメージは当時はあまりよいものではなかった。なんとなく垢抜けない泥くさい当時のオカルトサークルにはミスマッチな、それでいてとりとめもなくまとまりもない田舎の印象だった。
【問題の出所】
神奈川県の大山でなく、この板橋区の大山にもヨセフの塚がある、という話をきいたのは今から20年以上も前のことで、それまで聞いた事もなく、大山という同名に紛れた間違いだろうと断定したのだが(つかそもそも元のヨセフの塚自体がヨタ話なのに間違いも糞もあるかって話もあるがそれはさておき)、この話を教えてくれた齋藤靖という人は、「いや、間違いではない、遺跡かなんかあったんだよ、何人かで見に行ったこともある」と言い張っていた。実際、大山にいってきたのだがよくわからなかった。「道祖神とか庚申塔みたいなもの?」と聞いたが「そうじゃないよ、ちゃんとした遺跡だよ!」とのことだった。あるいは「大山じゃなくて、大山の『近く』のどこかでしょう?」と確認したが、「いや、ずばり大山だったはずだよ」と譲らない。私の疑問は宙ぶらりんになった。それが20年来の気がかりだったわけである。
彼はうそをいうような人ではない。この齋藤靖って人は『ムー』が扱うようなネタ全般という意味での「オカルト」関係者で、その人脈の多彩さと人望と性格の面白さとカバー範囲の広さ(鎌倉の洞窟探検譚など今でも謎に満ち興味深かった。最後に会った頃は、鍼灸や整体など身体医術にハマっていて「仙骨一元論」を唱えていた。発明家で身体医療家でなんでも屋の、得体の知れない人で顔は山口良一)で、なかなかの好人物であり、堤裕司とも長年のコンビだった(堤裕司氏は日本最初のダウジングの専門家で「日本ダウザー協会」を設立。80年代には心霊現象を解消するプロ「ゴーストバスターズ」を結成し写真週刊誌やテレビなどにかなり出ていた。その頃から斎藤・堤の両氏は疎遠になったという。ちなみに私も入れて三人ともほぼ同年。オウム世代?w)。そんな人間、いちばん信用ならねぇ典型的なタイプじゃねえかよ、といわれるかも知れないが、そうではない(ある意味そうだけど)。ある枠組み(というか約束事というか)の中では誠実なものなのである、我々は(俺もかよ)。
【大山町の探索】
そこまではいいのだが、そういうわけで私は機会があるごとに(といっても10年に1回とかその程度だが)板橋区の大山に出かけたり、調べたりしたものだった。それでまず驚いたのは、記憶の中の大山町の面影が全然なく、まったく別の町のように思われた。建物や景色だけでなく地形も地図も何ひとつ記憶と噛み合う部分がない。狐につままれた気分。もしかしたらまったく別の町を大山町だと間違えて記憶してたのかも知れない。大山駅から歩いたのは確かなのだが…? それはまぁさておいて、ともかく大山駅のある大山町の他に大山東町・大山西町・大山金井町が隣接しておりこれらを合わせた四つの町を広義の大山町(大山4町)とみても、調査に苦しむほどの広さはない。
しかしこの範囲にはめぼしい遺跡はない。
関東平野は長い間中央からみれば田舎で平安時代に武士が発生した頃からようやく開拓されたかのように思われがちだが、実は意外にも先史遺跡のひじょうに密集した地域なのである。旧石器時代や弥生時代も多いが、縄文時代と古墳時代がとくに充実して(縄文といえば東北地方が中心だが、こと縄文中期に限っていえば関東が中心だった)いて、住居遺構や貝塚はいうまでもなく、古墳が多いのも目につく。東京都が公開している遺跡地図をみると、ほぼ東京全土が遺跡の上にあるといっても過言ではない。
にもかかわらず、大山4町は、まるで遺跡と遺跡の間に落ちたように、遺跡地図に重ならないのである。大山4町から離れてしまえば、近隣にめぼしい遺跡はいくらでもあるのだが、逆に多すぎて特定できない。もっともメジャーな遺跡は、「茂呂山遺跡」といい、大山駅から二つめの上板橋駅から徒歩10分ほどのところにある。特に目立つのはこれだが、しかしこれだとあまりにも離れ過ぎである。大山町からはずれる場所ならば、最初からその地名でいえばいいのであって齋藤氏が「大山」にこだわった意味がない。
一度、これといった手がかりもないまま大山駅周辺を探索してみたものの、駅の近くの「子易神社」がおもしろかった他は、とくに何の収穫も得られなかった。「子易神社」は霊験もあらたかで由緒もあり、境内社の宗像神社は小さな祠でその泉は今でこそ汚い池だが往事はさも美しい水苑だったろうと思わせる風格がある。
【謎の解明】
結局なにもわからず仕舞い。それなら事のついで、近くなことだし、有名な「茂呂山遺跡」(上述)でも見ておくか、というわけで「茂呂山遺跡」の地図を詳細にみると、あにはからんや、「大山高校」の隣ではないか???
ここは大山町ではない。小茂根5丁目というところで同じ板橋区内とはいえ大山4町とはだいぶ離れている。
しかし、誰でも瞬時にはっきりと確信するだろう、つまり、齋藤氏のいっていた「大山」というのは「大山高校の隣」だったために、あのへんが大山という地名なのだと誤認していたに違いないということを。
だがなぜ大山でないところに大山高校があるのか? 大山高校に直接電話して確かめたところによると、そもそも大山高校はかつて夜間高校で今の栄町にあった。栄町は大山町と大山東町に隣接するものの、大山4町とは別の町である。しかし夜間高校ということで通学の便宜から最寄駅の名をとって「大山高校」と名付けられた。後に全日制となって現在の地に移転してからも、伝統ある学校名を継承維持してきたという。
【茂呂山遺跡】
茂呂山遺跡をみることができるのは三つの側面で道を挟んで大山高校側、それと石神井川に接する側、大山高校の反対側。どれも金網の柵が巡らされて入れず見え具合は一長一短で少々じれったいが石碑や表示板は立っている。他の側面は民家や建設会社の敷地に阻まれてみえない。面積としてはきわめて狭小というしかないが住宅街の中ではこうなってしまったのもやむをえない。古くは大山高校の敷地や石神井川を挟んで北に位置する城北中央公園なども含む広大な地域が「茂呂山」(もろやま)と称したという。
現在の茂呂山遺跡は広義の茂呂山の中心部で、かつての住民はここ(広義の茂呂山の中心)を茂呂山ではなく「オセド山」と呼んでいた。みた感じ地面が盛り上がって高くなってるだけで、一面ただの雑木林である。
日本考古学上、きわめて重要な遺跡であり、これに匹敵するものは群馬県の岩宿遺跡しかない。どちらも縄文時代以前の、旧石器時代の遺跡である。
【セド】
ところでこの「オセド山」という名が気になる。
オセドというのは原型は「セド」で、地名や姓として全国に存在する。
セドまたはセトと読む場合には「脊戸・背斗・勢戸・瀬戸・瀬斗・門廻・世登」などと書き、セドウまたはセトウと読む場合には「背洞・瀬洞・瀬東・瀬道・瀬藤・世道・勢頭」などと書く。語頭に「御・尾・小」などがついて「オセド」「オセドウ」などとなっている場合も多く、さらに「御伊勢堂」と訛って神明宮(伊勢神宮の分社)が祀られるに至り、語源と由来が逆転しているケースもある(神明宮を祀ったのが先でそこから「御伊勢堂」という地名が起こったという解説を稀にみかけるが誤り)。姓としての「門廻」(せど)氏は金沢市周辺にあり全国でも数世帯しかない珍姓。
このセドなるものは、一般的な説でいわれるのは「背(すなわち後ろ)の戸」の意味で、第一に裏口や勝手口の意。第二に家の裏庭または裏手の土地(裏口から出た所だから)。第三に裏庭や家の裏手にある「井戸」。実際にこれらの意味で使われていることもあるが、それだけではない何かがありそう。
これらの地名には考古学と縁がある。青森県五所川原市のオセドウ貝塚遺跡から人骨が発見されており、これが長腿彦の骨じゃねぇべかってんで一部のへんな業界(『東日流外三郡誌』関係業界)の人々の間で有名だが、そんなヨタ話はさておいても、全国の「セド系」の地名には人骨が発掘されたり貝塚や古墳だったりする例が多い(ちなみに貝塚をゴミ捨て場と思ってる人がいるがとんでもない間違いで、食べ物となった生き物の霊=幸(さち)を与えてくれた神霊の祭祀場である。アイヌの熊を祀るごとし)。
貴人の葬儀を行なってそのまま墓地にするような所ならば、「去り所(さりど)」というような意味だったのではないか。いずれにしろ、セドというのは意味や語源の辿れない太古の言葉の残存で、なんらかの聖地だった所のように思える。
【結】
すったもんだで今回は「考古学の見学」ではなくてほとんど「霊視・霊査の旅」だったわけだがw
脱線はこのぐらいにしてしてそろそろ本題に入ろう。「ヨセフの塚」をめぐるあれこれのおもしろい話はいろいろあるのだが、今回は省略。もし神奈川県の阿夫利神社のある大山の麓を散策する機会があれば、その時に改めて詳しく問題にしたい。
2008/12/09
11/01神道霊学研究/塩土老翁神と猿田毘古神
神道霊学研究/塩土老翁神と猿田毘古神
■11/01(土)午後3時
■神田明神境内休憩所で待ち合わせ
東京の大鎮守である神田明神、及びその摂社「籠神社」に参拝。
籠神社の祭神である塩土老翁神と猿田毘古神の二柱の神についての議論。
■11/01(土)午後3時
■神田明神境内休憩所で待ち合わせ
東京の大鎮守である神田明神、及びその摂社「籠神社」に参拝。
籠神社の祭神である塩土老翁神と猿田毘古神の二柱の神についての議論。
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