2007/07/20

万葉集からみる天皇と日本 第十回07/03/03【告知&レポ】

【告知文】
■第十回「皇室と日本を考える」学習会
3月3日(土)17時40分〜20時40分くらい(最大延長30分)

豊島区勤労福祉会館 第三・四会議室
豊島区西池袋2-37-4 池袋南口から徒歩3分TEL:03-3980-3131
http://nihon.lar.jp/02.html
池袋南口からメトロポリタンホテル方向に徒歩4分
池袋警察署ならび TEL:03-3980-3131

◎今回のテーマ『万葉集からみる天皇と日本/石川太郎(歌人)』

万葉の昔、天皇とはいかなる存在であったのか。
そもそも天皇とは神なのか、人なのか。それとも神であり、人でもあるのか?
天皇に仕える臣としてのあり方は?また、天皇を戴く民としてのあり方は?
記紀に次ぐ聖典「万葉集」を紐解き、祖先たちの魂の息吹にふれ、
皇室と日本の来し方行く末に思いを馳せたいと思います。

○参加費:無料(懇親会参加者は飲食代適宜)

■主催
「皇室と日本を考える」実行委員会
http://nihon.lar.jp/
(※お問合せ&連絡先:info@nihon.lar.jp)(※このメアドは現在停止)
■共催
女系天皇に断固反対する会
http://mixi.jp/view_community.pl?id=334458
万世一系の皇統を守る会
http://off4.2ch.net/test/read.cgi/offmatrix/1166609691/

【レポ文】
■「皇室と日本を考える」第10回学習会報告

日時:2007年3月3日
会場:豊島区池袋 勤労福祉会館

テーマ『万葉集からみる天皇と日本/石川太郎』

 今回は年度末ということもあってかご多忙の方が多かったようですが、それでもナビをいれて八名の方が参集してくださりました。以下、拙文恐縮ですがご報告させていただきます。

 はじめに、万葉集巻頭にある雄略天皇や舒明天皇の御製歌、そして中皇命の御歌を味わいつつ、イザナキ・イザナミの婚姻の際の歌「あなにやしえおとこを」「あなにやしえおとめを」からJ-POPや現代短歌に至るまでの歌の歴史のなかで、万葉集がどのような位置にあるのかから説明いたしました。万葉集は、神武建国と今上の御代のちょうど中間にあたる奈良時代に編纂された国民的歌集であり、主として七世紀前半の舒明朝から淳仁朝までの百数十年間、4500首余りを収録しています。舒明天皇より前の歌としては、古くは仁徳天皇の皇后である磐之媛の歌や、雄略天皇の歌なども採録されてますが、その数はごく少数です。

 次に、聖武天皇を思い光明皇后が作られた御歌「我が背子とふたり見ませばいくばくかこの降る雪の嬉しくあらまし(1658)」を取り上げ、また神武天皇の御製歌「葦原のしけしき小屋に菅畳いやさや敷きて我が二人寝し」や今年の歌会始での皇后陛下の御歌「年ごとに月の在りどを確かむる歳旦祭に君を送りて」にも触れ、建国の昔から日本国の政体は幾たびも変遷してきたけれども、皇室そのものはそんなに変わってないのではなかろうかという話をいたしました。

 次に、柿本人麻呂の歌「大君は神にしませば天雲の雷の上に廬らせるかも(235)」をはじめとする、大君は神にしませばという一連の歌を取り上げました。このような歌は壬申の乱以降に起こったものであり、一部の学者はそのことを根拠に「天武天皇より前の天皇は神ではなかった。天武天皇はみずからの権威を高めるため自らを神格化したのであろう」という趣旨の主張をしております。しかし、同じく柿本人麻呂の作に「葦原の瑞穂の国は神ながら言挙げせぬ国しかれども言挙げぞ我がする(後略)(3253)」という歌があることから、万葉時代より前の日本では、天皇は神であってもことさらそれを言挙げしなかったということが言えると思います。ではなぜこの時代、日本はあえて言挙げもするという気風に変わってきたのかといいますと、儒教・仏教という合理的宗教の流入により日本人の考え方や感じ方が徐々に上古とは変わってきたこと、隋・唐帝国の成立により否応無しに大陸の思想・文化を受け入れざろうえなくなったことが考えられます。同様に、記紀にはほとんどみられない天皇を褒め称える歌も、万葉の時代には広く作られるようにとなりました。また、日本語における「神」の語義を明らかにしつつ、戦後間もない昭和二十一年年頭に渙発された新日本建設の詔書に触れ、それが神話を否定するものでもなければ、天皇が神であることを否定するものでもないことに言及いたしました。

 次に、日本国の國體には-祖神-皇君-臣-民-という四層構造があることを指摘し、万葉集の歌から、皇君(キミ)と臣(オミ)と民(タミ)それぞれのあり方を考えいました。

 具体的にはまず、田口益人大夫が上野の国司に赴任する際の歌「昼見れど飽かぬ田子の浦大君の命畏み夜見つるかも(297)」や笠朝臣金村「もののふの臣の壮士は大君の任けのまにまに聞くといふものぞ(369)」など皇君に仕える臣の心意気を歌った歌、聖武天皇の御製歌「食す国の遠の朝廷に汝らがかく罷りなば平けく我れは遊ばむ手抱きて我れはいまさむ(後略)(973)」に触れ、臣とは、天皇が安らかな心でいられるよう、その命(言葉)を畏み、その手足となって行動すべきことを説きました。また、天皇は日本国民(王化の民)だけでなく世界諸国民(化外の民)を含めた全ての民の安寧幸福を祈られる立場にある方ですから、そのためには天皇自身が心安らかにいることが大切ではないかという旨を、あわせて主張いたしました。また、「海行かば」の歌詞が織り込まれている長歌として名高い、大伴家持の陸奥の国に金を出だす詔書を賀く歌にも触れました。「(前略)梓弓手に取り持ちて剣大刀腰に取り佩き朝守り夕の守りに大君の御門の守り我れをおきて人はあらじといや立て思ひしまさる(後略)(4094)」。

 次に、大唐帝国の脅威から祖国を守るため、遠く東国から北九州に赴いた防人の方々の歌を取り上げました。その中には、「今日よりは返り見なくて大君の醜の御楯と出で立つ我れは(4373)」のように勇ましい歌がいくつかある一方で、「真木柱ほめて造れる殿のごといませ母刀自面変はりせず(4342)」「我ろ旅は旅と思ほど家にして子持ち痩すらむ我が妻愛しも(4344)」のように、父母や愛する妻そして子供との別れを嘆き悲しんだ数多くの歌があります。やはり民とは、臣とは根本的に異なったものだと言わねばならないでしょう。そして、すべての民に臣であることを強要する「臣民」という言葉にも語弊があることにも言及いたしました。ただし、社会的立場は民であったとしても、臣としての心がけで生きることはできると思います(草莽の臣)。たとえば先ほど紹介した、「今日よりは」という歌を残した防人の方などは、そのよい例でしょう。もし皇統護持や國體復興を志すならば、それは天皇の臣に近づくことを意味するのですから、そういった皆さまには、まっとうな臣としてのあり方を学んで欲しいものだと思います。

 以上、簡単にではありますが、ご報告とさせていただきます。このような機会を設けてくださった皆さま、当日足を運んでくださった皆さま、そしてこの拙文を読んでくださった皆さま、ありがとうございました。