2007年7月20日金曜日

皇統断絶の危機〜それはいかに乗り越えられたか 第七回06/12/02【告知&レポ】

【告知文】
日時◆平成18年12月2日(土曜日)午後17時45分〜20時40分くらい
(最大延長50分)

場所◆豊島区勤労福祉会館 第三会議室
豊島区西池袋2-37-4 池袋南口から徒歩3分TEL:03-3980-3131
地図http://nihon.lar.jp/02.html

アクセス◆池袋南口からメトロポリタンホテル方向に徒歩4分
池袋警察署ならび TEL:03-3980-3131

◆今月のテーマ
「皇統断絶の危機
 〜それはいかに乗り越えられたか〜/○ささき「日本の道」研究・啓蒙家」

これまでの日本史上あったとされる皇統の危機。1)武烈天皇から継体天皇、2)称徳女帝から光仁天皇、3)称光帝から後花園帝、4)後桃園帝から光格天皇。万世一系を守るため、これらをいかにして乗り越えてきたのか、この主な4大事件の共通点と相違点を比較検討し、後世にその歴史を伝承するとともに、今後の危機に備える知恵を涵養したいと思います。

◆主催:「皇室と日本を考える」実行委員会
◆共催:女系天皇に断固反対する会 (mixiコミュニティ)
http://mixi.jp/view_community.pl?id=334458
◆協力:日本青年協議会 日本会議
◆お問合せ&連絡先:「皇室と日本を考える」実行委員会 info@nihon.lar.jp(※このメアドは現在停止)
http://nihon.lar.jp/

参加費無料。(飲み物持ち込み自由・今回、お茶菓子はなし)

お問合せ&連絡先「皇室と日本を考える」実行委員会 info@nihon.lar.jp

【レポ文】
■「皇室と日本を考える」第七回学習会の
開催報告

日時:2006年12月2日
会場:豊島区池袋 勤労福祉会館

テーマ
「皇統断絶の危機
      〜それはいかに乗り越えられたか〜/佐々木 勝浩」

 今回の学習会は、参加者22名、内初めて参加された方が6名、10代女性から50代の方と幅広い年齢層にご参加いただきました。またお子さんを連れてこられ参加された若いお母さんまで。それから、靖国神社の問題から天皇を知りたいと参加された方など。非常に熱心に参加されました。今回のテーマは、女系天皇断固反対のテーマとしては、核心的なテーマです。

●はじめに

もし、小泉内閣の皇室典範有識者会議の法案が通り「女系天皇」を容認した場合、敬宮殿下が天皇にご即位され、御皇族とは別の一般の男児が婿養子として入った場合、まったく違う血筋が入ることになる。そこで神武天皇以来守られてきた万世一系が絶えることになる可能性があった。ところがこの法案が明日にでも通過しようとしたその時に紀子さま御懐妊の報があったわけである。めでたくも悠仁親王殿下のご誕生によって、今回の皇位継承の危機はひとまず去った。しかし、時間の猶予をいただいただけであって、このままでは数十年後に再び、皇位継承危機がやってくることは間違いない。そのことを忘れてはならない。

【一部】過去にもあった皇位継承の危機

歴史を詳しく見ていくと、2600年余りの歴史の中で、皇位継承の危機は、幾度となくあり、その中でも、近親に皇子がおられない皇位断絶の危機は4回(①武烈天皇から継体天皇 ②称徳天皇(女性天皇)から光仁天皇 ③称光天皇から後花園天皇 ④後桃園天皇から光格天皇)あった。その他、宇多天皇など臣下に降っておられたが、皇籍に復帰しての即位であった例もある。また、称徳天皇以外の8人10代の女性天皇におかれても中継ぎとされるが、時の権力、蘇我氏との権力争いに絡み決して皇位継承は安泰ではなかった。多くの問題を抱えながら皇位継承はなされてきたことがわかる。

【二部】4回の皇位継承危機

 先ず第一の危機は、6世紀の第25代・武烈天皇崩御の時である。大連・大伴金村は、越前の国三国(現福井県坂井郡三国町あたり)にいる応神天皇五世の孫である男大迹(おおど)王(後の継体天皇)を迎える事にした。男大迹王は、既に57歳になっており多くの妃、子達に囲まれて暮らしていた。男大迹王ははじめ皇位継承の要請をなかなか受け入れなかった。ようやく王もこれを聞き入れ、樟葉宮で即位したが、男大迹王は即位して直ちに大和で政治を行ったかというとそうではなく、5年間樟葉で過ごした後、都を山背国の筒城に移し、更に6年後には同じく山背国の弟国に遷都するなど大変な苦労があって皇位継承がなされた。継体天皇は応神天皇から数えると武烈天皇とは10親等、実に260年離れていた。武烈天皇には、手白香皇女、春日山田皇女、橘仲皇女の3人の妹君がおられたにも関わらず皇位は継承されず男系で継承されたのである。
 
 第二の危機は、奈良時代の第48代・称徳天皇崩御の時である。藤原氏の確執の中で歴史上初の女性皇太子となり即位した孝謙天皇が重祚(一度退位した天皇が再び皇位につくこと)して称徳天皇となられている。称徳天皇は、道鏡を法王に任じ宇佐八幡神の神託として道鏡を皇位につけるべきことを奏上し、和気清麻呂を召して公式に宇佐八幡の神託を伺うことを命じたが、清麻呂は「我が国家、君臣は分定せり。…天つ日嗣には必ず皇緒を立てよ」との神託を奏上した。これにより道鏡を皇位に就ける計画は挫折した。翌年称徳天皇が崩ずると、左大臣藤原永手らの支持を受け、即位したのが光仁天皇である。時に御年62歳。『続日本紀』即位前条によれば、孝謙朝以後、皇位継承をめぐる政争に巻き込まれることを恐れ、「酒を縦(ほしいまま)にして迹(あと)を晦(くら)ま」していたという。称徳天皇とは8親等150年離れている。このときも称徳天皇の妹君の井上内親王には皇位継承されず男系継承されている。このとき道教が皇位につく可能性があり、もしかしたらこの時が皇位継承最大の危機であったかもしれない。今回の小泉内閣の有識者会議の法案が通っていれば、道教のように皇族に近づき皇位を狙う輩が現れないとも限らない。

 第三の危機は、室町時代中期の第101代・称光天皇の時である。称光は病弱あらせられ、後継問題が生じたため、100代・後小松天皇が幕府と話し合いにより称光天皇の後、6代将軍足利義教の仲介で北朝の別血筋にあたる彦仁王を子とし、彦仁王を子は後花園天皇として御即位された。称光天皇とは8親等130年離れている。このときは、速やかな皇位継承の引継ぎ役を後小松天皇が担われている。

 第四の危機は、江戸時代中期の22歳で第108代後桃園天皇崩御の時である。後桃園天皇には、欣子内親王がおられたが、白羽の矢が立てられたのが、後桃園天皇とは、7親等・130年離れていた閑院宮典仁親王殿下の第六子・ご末子、後の光格天皇・兼仁(ともひと)親王である。将来は出家される予定であった。当時皇室皇族は、「禁中並びに公家諸法度」により徳川幕府の厳しい監視下にありほとんどが出家し門跡寺院に入られるのが常であった。すでに宮家の男子皇族方が出家されている中でいまだ出家されていなかったのが兼仁親王で、生後間もない欣子内親王を皇后として御即位されたのである。時に御年9歳。傍系からの御即位であるため当初皇族方からも軽んじられがちであったが、天皇の行く末を深く案じられたのが崩御された後桃園の先帝である後桜町上皇である。後桜町上皇は熱心に教育にお心を注がれ、皇統の最先端にあって光格天皇のご自覚と御努力は、公家たちをも天皇を見習って学問するよう勧奨されたほどであった。光格天皇の学問の姿勢は、祭祀の励行と皇祖皇宗に対する信仰の深化ともつながり、徳川幕府の厳しい監視下で多くの宮中祭祀を復活させ、皇室復興の基となった。これが後に、孝明天皇へと受け継がれ、明治維新の原動力となっていくのである。皇位継承の危機の中で皇室の復権ならしめた光格天皇の御存在は誠に日本の歴史に特記すべきことである。光格天皇は生涯千首の御製を詠まれている。

よろず民 やすくたのしむ ときつ風 とよあし原の 國さかえつゝ
みのかひは なにいのるべき 朝な夕な 民やすかれと おもふばかりを
たみ草に 露のなさけを かけよかし 世をもまもりの 國のつかさは

【第三部】歴史の教訓から現代の我々は何をなすべきか

 皇位継承は、守ろうという意志がなければ守れない。いつ途切れてもおかしくない。その何時途切れてもおかしくない皇統に危機を2600年もの長きに渡り知恵と努力で守ってきたからこそ皇統は尊いのではないだろうか。歴史を紐解くならば、皇統の危機には必ずキーマンが現れる。大伴金村、和気清麻呂、光格天皇の時代、江戸中期には、吉田松陰など明治維新の志士に多大な影響を与えた高山彦九郎が尊王のネットワークを全国につくり上げていた。その裏では幾多の名もなき草莽の志士が御皇室を敬い崇敬されてきたに違いない。だからこそ現代に皇統は守られてきたのである。それを考えると国民の御皇室への無関心こそが最大の危機である。それを自覚すれば、日本の歴史の最先端にある私たちのなすべきことは自ずと見えてくるのではなかろうか。  
(佐々木勝浩)