2007年7月20日金曜日

蓑田胸喜の人生宗教〜神ながらの道入門(神ながらの道〜天皇論をめぐる蓑田胸喜の言語魔術:改題) 第十一回07/04/01【告知&レポ】

【告知文】
04/01【東京】「皇室と日本を考える」学習会(第十一回)

日時■2667年04月01日(日)午後1時30分〜午後4時00くらい(最大延長30分)

場所■東京都 (勤労福祉会館5階 第一・二和室 豊島区西池袋2-37-4
池袋南口からメトロポリタンホテル方向に徒歩4分池袋警察署ならび
TEL03-3980-3131 http://nihon.lar.jp/02.html

◎四月のテーマ
「神ながらの道〜天皇論をめぐる蓑田胸喜の言語魔術〜」(担当:Frida)

戦前、機関説の美濃部達吉や神話否定の津田左右吉を始めとする多くの学界
の権威を、愛国憂国の立場から、執拗激烈に批判追究した「原理日本社」。
その筆頭こそ蓑田胸喜である。
純情な少年が明治の風潮に乗じて、文学のロマンと哲学の苦悩にもまれつつ、
いつのまにか論壇界における護国の「狂気」となり、終戦後ひそかに自決。
壮絶ながら地味、地味ながら壮絶な彼は、結局、何を伝えたかったのか?
彼は何に魅せられ、何を守ろうとしたのか?蓑田胸喜の魅力と人間性に迫る。

○参加費:無料(懇親会参加者は飲食代適宜)

主催■「皇室と日本を考える」実行委員会http://nihon.lar.jp/
(※お問合せ&連絡先:info@nihon.lar.jp)(※このメアドは現在停止)

共催■女系天皇に断固反対する会
http://mixi.jp/view_community.pl?id=334458
共催■万世一系の皇統を守る会
http://off3.2ch.net/test/read.cgi/offmatrix/1147608766/

【レポ文】
■「皇室と日本を考える」第11回学習会報告

日時:2007年4月1日
会場:豊島区池袋 勤労福祉会館

テーマ
『蓑田胸喜の人生宗教〜神ながらの道入門(思想史研究家/ Frida)』

 Fida氏が、蓑田胸喜の引用を使い、レジメを簡潔にまとめました。

 蓑田胸喜の人生宗教〜神ながらの道入門

<レジュメ:第十一回「皇室と日本を考える」学習会『蓑田胸喜の人生宗教〜神ながらの道入門』(by Frida)>(「」内は、全てか、ほぼ全て、蓑田胸喜の引用。『』は私による強調用。)

「私自身は早く父親を失ったのですが、五つの時のことで父の顔はぼんやり覚えて居ります、お葬式の有様、母と一所の車に乗って行ったことを覚えて居る、それが最初の記憶でります。それでそういう事に限らず、人間の自覚意識というものは障碍とか欠乏とかいうものを感じた所から起り発達すると思います。」

蓑田胸喜の原体験の発端とはーーー『死』。孔子も、早く親を亡くし、その『死』から、強い『孝』の念に移り、『詩』(歌)を介して、『礼』に至った。蓑田は、『死』から『忠』に移り、『言』(歌)を介して、『道』に至った。道は、ここからそこへと、そこからそこへと、進まれる。進む主体、進む過程、進む場所が合致する処が、道。始めから終りまで、人は道と共に在り、道は人と共に在る。では、人道は、何処に向かうのか?

先ず、出発点に戻ろう。

「赤ん坊が生まれて泣く、それはやはり食べるものを求めて居る、欠乏を感じて居る、お乳を飲んで満ち足りるとスヤスヤ寝ってしまう、お腹が空くとまた泣く、その泣くということは生命の自覚であると思います、或は何か痛い目に遭わされるとやはり泣く、そういう事を重ねて行く中に自意識というものが意志の過程として次第に形成されて現れて来るのであります。」

『空腹』ーーー心身の空腹が、人を、旅へと駆り立てる。食料へとの旅、知恵へとの旅、夢想へとの旅、冒険へとの旅、平安へとの旅ーーー『人生』と言う旅。心身の糧へとの旅は、『食物(ヲシモノ)の道』を辿る。その道をどう称そうと、その道に於いて具体的に何を求めようと、歩むのは『私』である。人生の道筋は、自己に始まり、自己に行き着く。その自己は、『死』に辿り着く。『生』なる自己と、『死』なる自己。自己が生まれる『以前の世界』と、自己が死んだ『以後の世界』。そこに介在する『真理』とは何か?『私』とは誰か?

『卵が先か、鶏が先か?』ーーー永遠の逆説。『産みの親が先か、産む事が先か?』ーーー未分は未分だ、と言う他無い。どちらにしろ、何らかの創造主体か創造原理が、人類の誕生以前から存在した、と言う事に、変わり無い。自己を知る旅は、過去の道を歩む。過去とは歴史であり、知られ得る歴史は、記録された、文献史としての歴史ーーー『言の葉の道』である。その文献史の原点は『歌』であり、日本の場合『和歌』であり、『敷島の道』である。その原点の岬から見渡せる『歴史以前の世界』が、『神世』。その世界に連なってある道が、『神ながらの道』であり、『マコトの道』である。『真理』は『神』に連なる。『神』に連なる『コト』が、『マコト』なのである。

人類以前から存在する、自ずから然り為す現実は、神から与えられた『ミコト』であり、その現実を参照してこそ、真理は開示され得る。刻々と変じる現実を、体験や追体験する事を通じて、人は神と結ばれる。その道程が、自己発見のみならず、自己形成の過程であり、全的連関の自覚過程であり、全的感覚の融合向上である。現実に於ける全ては、全的連関の一環として、存在する。『人の道』は、『食物の道』、『言の葉の道』、『敷島の道』、『神ながらの道』、『マコトの道』を介して、『神世』に連結してる。『私』は諸々の『コト(言/事)』を通じて『神』に繋がってる。

過去に於いて知り合う『私と汝/神』は、現在に於いて、未来に向かって為し合う『私と汝/神』である。『私』の自覚とは、『歴史』や、歴史の根源たる『神世』との『対照』で以て、成立深化する。『私で在るコト』、『私と成るコト』は、『神』と共に成立する。その大切なる『私』に対する絶対的脅威たる『死』ーーーこの「人類に平等なる自然必然の運命ーーー『死』の事実」、「この事実から対照強化的に促さるる」のが「『永久生命の希求』の心理」である。

その希求は、『意義』の重視に繋がる。『意義』は、『霊魂』化されたり、『霊魂』観は、『輪廻』の世界を想い起こす。ウパニシャッド思想では、様々な『輪廻』観が想像されたが、その一つに『五火二道』説がある。曰く、人の魂は、死に際して、祭火に託されて、(1)月に入り、(2)雨となり、(3)地に下って食となり、(4)食されて精子となり、(5)収められて母胎に入って産まれる。曰く、死後の道は、神道と祖道の二つあり、神道は、死後梵界に達して再びこの世に帰って来ない道であり、祖道は、死後五火の順序で再びこの世に産まれ帰って来る道であり、何に産まれるかは前世の業(行為)によって規定される。

『日本の神道』は、解脱より、『循環の道』を志向した。『継承の道』である。原理日本社は、『意義』の『継承される場所』と『継承する主体』の実践単位として、『祖国』=『日本』を認識した。対照するべき事実の総合は、全世界や全宇宙である。が、全世界は混雑であり、全宇宙は混沌である。『継承』と言う集団的、系統的な行為を遂行し得る、最低限度の纏まりと最大限度の広がりを有す単位とは、『祖国』だ、と彼らは認識した。日本に於いて、『祖国』を原初から統べるのが、『皇統』である。日本の、『生命の系統』は『皇統』であり、『皇統の継承』が『生命の継承』を意味する。『皇室』は、『神世』と『日本史』を繋ぎ、現在に応じて関係を継承しながら更新する。復興即維新の精神である。

『人生』と言う『人道』は、遥か原始から在る『神道』、原始以前から根源として在る『神世』と結ばれてるが故、「人生の原理はあくまで人生そのもののうちに求むべし」。『人生』の『解決』は、『人生』に内在する。併し、「黄金、名誉、富貴、権勢等一切の外在物質または悪魔、善神、正義、人道すべてそれらの概念名目によっての仮定解決、簡易解脱ではない」、「それら一切の条件仮定を滅尽渾融せしむる無解決の情意的直接解決、希有最勝深妙の不可思議解決」、「人生による人生の解脱」が、『マコト』の『解決』である。超越即内在が、『マコト』の超越である。

『人生』即『解決』でありながらも、その『人生』も『解決』も、根源的には、「名つくべからず、説くべからず、測るべからず、思議すべからざる全的神秘」であり、「説明すべからざるもの」であり、「変転生成連続無窮の運動活動の世界」であり、「全的流動の過程」である。『人生』の『解決』を巡る「個々の奇跡的予言的神秘をとく神秘主義は迷信として打破」した後、「悲劇的無解決の無窮開展としてのあるがままの人生そのものが残るのみ」。ここで、『人生』と言う『解決』は、同時に『無解決』だ、と評された。それは、『人生』が「過程的展開、生成する無限であり、完成したる無限ではない」からである。「完成したる無限ではない」=『無解決』であり、「過程的展開、生成する無限であり」=『解決』だ、と言う意味である。

「人生の全的驚異としての神秘感」、「その背後に何物の存在をも認めぬ」、「無神秘主義」、「無深刻主義」、「あるがままである」、「そのままである」、「動いているだけである」、「それだけである」、「それが一切である」。それを敢えて「客観化し確証し伝統するもの」が「『人生の表現』としての『芸術』」である。そこに、「運動活動の世界の分析抽象」としての「神と仏とを要せざる現代のわれらの芸術的人生宗教」が成立する。(「変易無常の個体個人またはその目的分化による理論的実体化としての神仏の崇拝は共に迷信である。」)それが、「無宗派的人生宗教」であり、「不無涯底の動乱的人生」に於ける、『人の生き方=人生』であり、『人道』である。

「人生の『未来』」は、「理想、空想、希望、希願、疑惑、憂慮の対象」であるが、「未来は予言すべからず」、「われらに与えられたるものはただ過去と現在とのみ。」その「現在」とは、「実行活動の世界」。そして、理想の『人生』とは、その「現在」に於いて、「不断の交通と改革によって合成創造せらるるところの世界全人類生活の流動的開展に随順することによりてのみ実現せらるべき」であり、「そのために内外物心一切の迷信障碍を打破」するべきである。この不断の現実相応の芸術的な創造は、「現実的経験と思想信念」に基づく「芸術的表現」に拠る「直示」を意味する。言わば、『人生』とは、『宗教』としての『人生』、『芸術』としての『人生』とに分別され得る。「芸術の究極は宗教であり、現代に於ける宗教は芸術である。芸術に帰趨綜合せらるる文化である。」

「いま芸術とは何ぞや?というに就いては、自然をも含めての人生の表現であって、その模写ではないということ」、「あらゆる時を通じ、人に内在し、法に作用して、それらと共に働き、それらを補足し、または君臨的に支配する人類精神生活の究極原理であり、その直接表現である」。「芸術的鑑賞或は創作というもののうちには、哲学が求めて已まぬところの道徳や宗教の理想が観念媒介の迂路によらず直感的感覚的形式に於いて実現せられる」。「これ実に「神ながら言挙げせぬ国」と形式論理を否定しつつ、然しながら同時に「言霊のさきはう国」と、いいつぎ語り継ぎ来った日本精神と日本語との削減の威力を示す芸術的簡潔性に対する脚注と見るべきでありましょう。」

『芸術』の基本である『表現』とは、「神人交通によって、神の心が人の心の鏡にうつりたること」、「すでにありし心を言葉に解きほぐす」こと。「言葉は目に見えない精神生活、即ち見えざる実在の直接の表現であり、その実証であります。」迷信で無く、真信の、真理の『神』の心に結ばれ通う心=真心に在る、現在相応の素直な感情=直情を、忠実忠誠に表現する言/事が、正しいコト、マコトである。そのコトゴトの価値判定の参考は世界史であり、基準は祖国史である。そして、日本に於ける文献史の軸が、代々更新される「ミチシヲリ」であり「承詔必謹臣道の経典」たる「神勅詔勅御製」である。

と言っても、天皇も動乱の中に在る。『神世』と『歴史』を結び通わせ続ける『祭政一致』の『王朝』が統べ澄める『文化』制度は、「実現せられたる世界文化単位」として「人類史の未来を予告」できる。併し、実際の行動(業)は、刻々と変移する現在現実に応じて、決断する必要がある。各自は、『神世』から、『歴史』を介して、『祖国』に於いて降臨する「美的直感」に依拠して、未来へと向かって、挑戦冒険する。「人類の歴史は「思わざることの起る」無極無涯底の創造的開展として不可測不可思議のものであるから、一時無常の存在たる個人は歴史の全体は之を決して「自己の裡に宿しておる」ものではなく、従って之を「体系」に組織し得るものではない。」不可測だからこそ、不安を感じもするが、不可測だからこそ、生き甲斐もある。

「末来疑惧の理知を奮進の情意に忘却せしめて、今われらもろともに立ちいでて祖国日本につかへようではないか!」「同胞同士戦死者の現身は亡びても天がけり御国守らす千万の神々の霊を魂喚ばい魂祭りして一向直進せねばならぬのである。」前述した通り、「現在」とは「実行活動の世界」。過去から受け継いだ、大いなる『歴史』に基づいて、現在と言う『動乱』に於いて、『宇宙・世界・祖国』と共に、未来なる『未知』に向かって、賢明に『実行実感』、『表現交信』し、挑み続けて、永遠なる『転生継承』の『神ながらの道』に『貢献帰入』するーーーそれが、『蓑田胸喜の人生宗教』である。///